日記

とみいえひろこ/日記

立花開『ひかりを渡る舟』

窓ぎわの猫一度鳴く 笑わねばならぬ日が重なって剥がれぬ

 

呼ぶたびに言葉が傷を負うことを知りつつ幾度も呼びたき名あり

 

疲れやすき私は途中で座りしが先へとなおも引く力あり

 

ふたりだけの詩を詠むあそび沈黙に金木犀のふたつ、みつ、落つ

 

私じゃないわたしが君といてほしいリネンに川を生んでは消す指

 

耳かきをするため深く身を倒すあらそえぬから底まで覗く

 

わたくしの芯にある鐘は燃えながら許せぬままに生きよと揺れる

 

 

立花開『ひかりを渡る舟』(角川書店

 

 

ふかく疲れる、ということについて。

産み落とされ、ここにいろと言われ、ここにいることを受け入れてゆく時間がある。あらかじめ概念ごと用意されている言葉(海、光、特別、など、など)を母語として与えられ、受け取り、受け入れる時間。

身体に入れつつ、飲み込みつつ、そのときにぶつかったり爆発するようなエネルギーに振りまわされ格闘する感じを「若さ」というとも思う。身体に入れて、飲み込んで、自らの身体をつかって生き延びてゆく。自らの身体をつかうそのために内側に残ってしまう違和感や傷自体を自分の言葉として、その言葉で今度は傷つき・傷つけ合いを避ける方法で手さぐりをしてゆくこと。

与えられた言葉と、ある種の愛憎関係を経ながら受容体である自分自身の空間や時間を広げたり飛ばしたり巻き戻させたりして何かの命を生き延びさせてゆくこと。そういうやりかたで世界とつながりなおしてゆく、という一連の表現は、回復の手続きそのものだ、と思った。

「死」の気配が濃く、死を生きるものそれぞれのニュアンスが混じり合ってささやきあう。そのくらいの声のボリューム、速度、広さをもつ歌集だと思った。死があるから生も意識されて、生の眩しさが目に痛い。死と生の間をつなぐものとして、深い疲れが横たわっている。疲れを抱えて味わう時間によって、死と生に支えられている自らを保ちつづけたり歩けたりする。