日記

とみいえひろこ/日記

2023.05.12

『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ 岩坂彰/訳(みすず書房

 

「自分の足を見つけ出す」というユージェニーの章が心に残った。いろいろ書き写したのにうまく保存できていなかった。

 

ユージェニーというバレエダンサーと一緒に『心は孤独な旅人』を読んでいくなかで、ユージェニーが彼女の経験によって独特に獲得した、物語のなかに飛び込むような読み方が見えてくる。飛び込む身体が出会って受けてきたものが見えてくる。

 

「バレエは、言葉に翻訳する必要なく受け取られるようなあり方で、自身の物語を語らなければならない」

「複雑な物語は語ることができない……同義語は踊ることができない」。物語の複雑さは身体の上に置きなおされている。それはダンサーがどのようにダイナミックに空間を占めるかという問題になる。日常生活の中では、ユージェニーはもっと伝統的で、もっと自覚を伴う言語的な枠組みを必要とした。

 

この母親との話を聞くと、聾者でありかつ自閉症であることがいかにたいへんであるかがよくわかる——まして、聾者であり、かつ自閉症であり、かつ黒人であり、かつ白人であり、かつモンゴル人であり、かつ日本人であり、かつインドネシア人であり、かつチェロキー族であり、かつユダヤ人であるユージェニーであればなおさらである。

ユージェニーは母親のシャナからマルチレイシャル性について多くを学んでいた。しかしその母親でさえ自閉症を受け入れられなかった。「母は私の独自性の価値を認めてくれたけれど、それは彼女が私について受け入れられる特徴に限ってのことだった」とユージェニーは言う。いくつか難しい理由があって、母親は混在する特徴の中に神経学的なものを加えることができなかった。彼女から離れていった夫は、おそらく自閉症スペクトラムだった

 

ユージェニーとこの小説について話をしているうちに、彼女が先述の障害児学校でのような経験を何度もしてきていることがわかってきた。どんな集団であれ、多くの形の特異性に対応できる余裕は持てない。そこで彼女は〈自分自身〉になることに決めた。私はそれを、〈多面的でつかみどころのない自己〉と呼ぶことにした。「そう、私はほんとうにつかみどころがない」と彼女も認めた。

 

しかし、この悲劇には何か不当なものが入り込んでいる。ある種の冷酷な恩着せがましさのようなもの。それをユージェニーは感じ取っていた。
彼女の「乗り越え」も社会的、経済的、政治的解決策の必要性を認めるものではあったが、同時にカテゴリーが持つ暴力性を理解し、その暴力を人々に向けるのではなく、それを生み出す考え方に向け直そうとすることであった。

 

混沌、たとえばひとつの身体のなかに抱え込んで、何がここにあるのかも向かう先もわからなくなった〈交差性〉が抑圧されず表現される営みを持続させるための抜け道だったり仕掛けとしての、クィア性、さまよい、不安定さ。足を地面に置く。地面の不安定さによってその置き方が自ずと決まる、跳ね返ってくる不安定さと一緒にまみえながらけれども歩くしかないなかに、自分の足を見つけ出す。見つけ出す目が現れる。その足は見えないし、つかみどころがない。こんな混沌とした地面は、こんなふうにしてしか、この足でしか歩けない。この足でだけは歩くことができる上に、踊ることができる。

 

さらに彼女はバレエを通じて、優雅さの必要性を学んだ。