日記

とみいえひろこ/日記

2023.10.22

どこから、誰になって見ているのか、ということが気になっていて、納得いかない。納得いかないこと、居心地のものすごく悪いこと、さまざまな傷、その膚の弱い場所、こそが、わたしを支える、はずだ、と、仮定し続けている。やっているのはそのことだ、と思う。

 

フィルダウスの物語が、ほかならぬフィルダウス自身の物語としてサヴァイヴァルするためには、フィルダウスの語りによって女医自身が変容しなければならない。

 

こうやって抽出したものをここで私が読む。ああ、ページに折り目をつけたのに。ここだと思ったのに。ほかにつけた多くの折り目のうち、ここが抽出しやすく適切だ、とも思ったのに。「分かる」気になる、この時点、この場所、読んだ私のいる場所がすでに「奪ってしまった後」だと思う。思ったこと、分かったこと、読んでいないこと、という「無さ」に、「どうしても違う」という場所に、「読むわたし」がいる。いる、とどこかで理解しようとするとき、「居た」、いないと見えていたところに居た、という時間とそれが接続し、時間が生まれる。

 

だが、逆に言えばそれは、私たちが恐れているということではないか。テクストと現実のあいだの境界線が曖昧になり、私たちがテクストの語りに飲み込まれてしまうことを。自ら何者であるかを名乗り、他者が何者であるかを規定していた私たちが逆に、テクストによって何者であるかを規定され、私が私の考えるような者ではなく、私自身の正当性が剥奪される—すなわち、私自身が服している法それ自体が切り崩される—ことを。

 

 

岡真理『棗椰子の木陰で』(青土社

 

この本も、図書館で何度か借りた後に迷って買った本。買ったのは新装版で、あとがきに2022年3月時点のガザのことが書かれていた。「ハマース」という言葉が短い文のなかにあった。本文初出のいちばん古いのは1998年。