日記

とみいえひろこ/日記

2022.11.28

高松里『セルフヘルプ・グループとサポート・グループ実施ガイド 始め方・続け方・終わり方』(金剛出版)


あとがきに、著者がこの本を記した背景、著者自身のニーズが書かれていたりして読者の心をつかみつつ、深い情報を削ってできるだけ易しく読めるようにされただろうことが伝わってくる、良い本でした。


・「セルフヘルプ」という言葉の考察が書かれていました。

誰も責任を肩代わりしてくれない。これは孤独な作業です。自分と向き合う、という意味でやはり「自助(self-help)」

実際に手を貸したりほんとうのところまで他者を理解することはできなくても、痛みやひらいた傷口を通じてつながることで支えられながらそれぞれの「自助」という営みに向き合えるということ。これは心づよいことだと、この世界を少し知ってみて思います。


・どんなグループにも「不満期」が必ずあるということ。


・なんらかの都合で参加できない人もいる。と覚えておくこと。
「つながり」が消えない工夫ができるということ。


・「問題との付き合い方を考える」ことができる場所、どうにもならないことを考えてもいい場所を、人はつくれるということ。


・「当事者」とは、「party concerned」。反対語の第三者は「third party」。
もともと、人々を関係者と第三者に分けるというニュアンスがある。という前提で、

 

私たちは当事者を「ニーズを持った人々」と定義し、「問題をかかえた人々」とは呼ばなかった。というのも何が「問題」になるかは、社会のありかたによって変わるからである。
(『べてるの家の「当事者研究」』医学書院)

 

という言葉をひいて、

「当事者グループ」とは「ニーズを共有した人たちのグループ」というニュアンスになります。であるならば、当事者グループのなかには、支援者も入ってくる、なぜならニーズが同じだから、ということになり、分断の問題はない、ということになります。

 

と書かれていたことにはっとしました。やっと、少し捉え方がわかってきた気がして。
私自身のニーズが、家族のニーズと釣り合うからです。家族の困りごと自体を、ほんとうには理解できなくても。

 

そして、自分のなかにもたしかに困りごとはあり、誰にもわかってほしくないそれら雑然としたものは、しかし、私が前に進むために、せめて私だけには言語化しておかないと、ずっと幼稚なまま、同じことを繰り返す消耗に尽くすためのただの道具だったということになってしまう。今言語化できていない私の困りごとたちは、とても幼稚で未熟で、取るに足らない、醜く、恥ずかしいもの。

また、ここからもっと進めて考えられると思う。自分の困りごとがすべて他者の困りごとに因るもの、関係するものだと感じることの意味や、困りごとという言葉があらかじめ外に用意されているものということや、ニーズによってつながる、結びつくことが行き過ぎるとどうなるかということや、すでにそのかたちを私は知っていて、その逃げ場所こそ、個々の困りごとのある場だったのではということや。自分のことまで辿りつけていないのではということや。