日記

とみいえひろこ/日記

2023.10.23

越川道夫/監督・脚本「アララト 誰でもない恋人たちの風景 vol.3」

 

ほんとうによかった、こういう映画が観られるんだったらもういい。何があっても、何もなくても。掻きむしられる、気持ちになって、途中で無理になっていったん休憩したりした。あらゆる思いと時間を経験した後にいるみたいだ。

半身麻痺を抱える夫と妻の話。夫とその父親の関係や、妻が出会う誘惑など、どこにでも誰にでも起こり得ることが描かれたミニマムな映画。行って帰ってくる、行って帰ってくる、それを何度も。
体(「精神」を含む)の不自由、社会的な不自由が、ひとりや一単位の生き方に思考にどのように覆いかぶさってくるか、苦しめてくるか。夫の苦しさ、妻の苦しさ、同時に、「健常者」のきつさ、何も分かっていなさ、残酷さ。したたかさ。言葉にされたものって、ほんとうになにひとつ噛み合っていないんだな、と思った。ただ、それらは内容の話で、そんな、言葉にできることは分かっている。分かっていながら、間違うということを人は何度もやる。

植物に、わたしも物に話そうと思った。映画であった、映画を観た時間であった、という時間が、今日はあった。

 

妻の側に寄った(妻の側に目を置いて、少し離れつつ一緒に世界を見守るような。カメラが妻の側に寄り添った)描かれ方だった。はじめから終わりまで実は何も、ほんとうに何も通じ合っていないままなのだと思う。言葉にされたことについてはなおのこと。そのことをお互い、自分に合った適切な知り方でなんとなく知っていきながら、お互いがひとりのままで、自分が何を黙ってひとりの人間としてどんな場所にどんなふうにいることにするか、なんとなく受け容れてゆく、揺れる幅や隙をつくっていく。

スギちゃんの目線から観たこの世界は、どういうのだったんだろう。全然違う映画になっていただろう。この俳優がものすごく良いと思った。それと、音や、生活音、なにか、映画の時空間のつくりかた。参考文献も出てくる。