日記

とみいえひろこ/日記

「アララト 誰でもない恋人たちの風景 vol.3」

越川道夫/監督・脚本「アララト 誰でもない恋人たちの風景 vol.3」

 

感想つづき。

たとえば、寄り添う、という言葉は私にはとても苦しい。拒否したい。こんなふうに何か、言葉のひとつひとつを吟味していくと、わたしが間違って受け取ってしまっているものがずいぶんあるだろうと思う。

寄り添う、というのは、どの位置から見るか、ということだと思う。添おうとする者の位置を奪わず、離れて、黙って、ちゃんと正しくひとりになって、ものを見る、ということ。

 

・夫を演じる誰か。夫役に「寄り添う」その誰か=「役としての夫」。この、「誰か」の言動、たたずまいの理由のすべてに、その役に与えられたたしかな現実である「身体の不自由さ」からくる苦しみ、屈辱感、孤立感、妻に面倒を「みてもらう、お荷物である」苦しみがある。と思った。

二者のつながり、三者のつながり。「つながり」のなかで生まれる苦しみ。この苦しみは、寄り添われ、奪われて、足場のない、息の苦しさ。相手主体のつながりに依存するというとんでもない危うさからくる苦しさ。自分主体で味わうものが苦しさしかないという苦しみこそが、この身体を生きる「誰か」の支えとなり、理由となり、身体を、この世界に、この生存圏に、堰き止めている。

「身体」とか「誰か」とか「苦しみを味わう自分」が、それらをうっすら感じるわたしに関係や責任があることは分かるけれど、肉体的にも実感としてもわたしの内側でつながっていない。理由が外にあるから不安定で、自らを支えるキャパシティの限界は目に見えている。追い詰められ、堰き止める量を越えそうなところも描かれていた。量を越えるのは、簡単。ふっと、いってしまう。

この「誰か」が生きている世界に「寄り添っている」カメラを通して、こちら側でそれを観ている私も、見るのがかなり苦しかった。映画を観るとき人は、解放されて、宙吊りになり、「寄り添う」というはたらきや、見るというはたらきを、分かっていこうとするところへ向かうことができる。


・「寄り添う」側の、何も分かっていなさ、残酷さ、すべての場面における。他の人はそう見ないかもしれないけれど、どうだろう。私には全部の場面が、すべての人が、そう見えた。


・言葉の噛み合わなさ。通じ合ったと見えるシーンも、実は何も通じ合ってはいないと思った。それでも、隣にいることを選ぶことはできる。ほかのやり方もある。隣にいるのが善というのでもない。隣にいるのを選ぶのは実は簡単で、大きな間違いがない、想像できる範囲の選択だから、安全、まし。隣にいるのを選ぶとして、隣にいる、そのありかたは自由。


・植物に思いの丈を話すということ。

 

・どこから、誰になってものを見るのか。もう一度、寄り添われ、からっぽの「夫」の目の位置を確認しながら観たいと思う。どこかで時間をつくって。

 

・最後のほうのスギちゃんの言葉は、通じた、通じ合ったのではなく、つながったり通じ合うということはこれまでもこれからも絶対にないことを分かっておくことでひとりになり、ひとりになったわたしがどういうふうに世界を見ようか、見ていこうかということをなんとなく決め、向こうにいるあなたを、ときにわたしを奪ったり否定したりしてこようとするあなたたちを、ゆるすことにしたときに出た言葉なのではと思った。