日記

とみいえひろこ/日記

2023.08.11

一度だけ、もう絶対に会うことのない誰か、すこし似た環境にいるのだろう通りすがりの誰かが、毎晩ひとりで映画を観てから寝るんですと伝えてくれた。

私もそうしていればよかった、と思う。ただただそうしていればよかった。映画に私の答えも問いも全部描き込まれていると、つよく感じるから。

でもそのときは時間も力ももたなかったと思ったから、無駄だと思ったから、選ぶことなどありえなかったから、それでいいんだと思う。今、今のようにしていればいいか。

資料あつめや取材的な、準備の時間がもうすこしそれなりにとれるようにずっとなりたかった。やっと少し、と今日思ったと同時に、でもこれくらいかかって当然かなとも思う。

少し、必要があって観はじめたものが意外に良くて、じとっと観てしまった。後半、輪になって一室で、〈もう名前のない何か〉を喪った女性たちが言葉を交わすあたりや、「太陽」王へ言葉を返すあたりや。後半は特に、現代的(新しい、という意味ではなくて、ただ、今っぽい、今の感覚が染み付いている)、合理的、言葉のやりとりによって傷を回復していくあり方を描くための裸だったのかもしれない、とも思える。ひとつの映画のなかで、額の皺や目尻の皺、別の映画だけど唇の皮のはがれた感じとか、映画の時間の流れ方のなかで人の顔がほんとうにいろんな顔に見えてくる、そういうところがすごいと思う。

(「ヴェルサイユの宮廷庭師」アラン・リックマン/監督、「夏の終り」熊切和嘉/監督)

 

やればできるはずなのに力が入らずできず。今やっておけば明日以降少し余裕をもってできると分かっていながらできず。でも休みながら資料をいつもよりぜんぜん集中して読めたりした。

内田あぐりの「女人群図-I 1976」。子(=抱えるもの、適切な土や水や太陽が与えられるべきもの、それ自身が背負ってしまったものすべての意味)を背後に隠すひとりだけが、子といる時間を選んだばかりにひとり。という絵に見えた。同時に、ひとりのなかの時間や多声、同じ意味でたくさんのひとり、身代わり、といったものが表されているんだとも分かる。と思う。