そうではなくて、ひとつひとつ現れていることのほうがわたしには信頼できる。はずだ。その現れ方や、なぜその表現がとられたか、それを今目の前にいる私がどう受け取っているか、どう受け取ってゆくことができそうか、という間のところに、何らかの名前がつけられるかもしれないし、つけられなくても、ひとつの何か、考える材料になるかもしれないし。与えられている名前やあてはまりそうな名前はあくまで記号で、便利で、相手のために必要とされるもの。今の、今だけの、相手のために。わたしのほうもそちらの名前を使って語るのが便利で内面でも使ってしまう、けれど、これではすれ違うばかり、ねじまがっていくばかり。ひとつひとつ、いい位置で、見ることができればいい、どうにかして。
ウォーターメロンの果汁のみずっぽさ啜りてわれは所詮身勝手
いつの世もこうしてひとりでいたような 真昼の息が身を抜けてゆく
鈴木英子『油月』
あたかも尊は誰の視界からも拒まれている文治を見る役割を背負わされてしまったかのようだった。誰が、何が、尊にそんな役目を押しつけたのか? もちろんそれは、この土地しかないはずだ。だとすれば、この土地は必ずしも文治を無視しているわけではない。拒絶しているわけでもない。そうはならないか? 尊にこうはっきり文治が見えるのだとしたら、周囲の風景が、命のあるなしを問わずこの土地の風景を織りなすすべてが、己の存在や輪郭や濃度を、かりにあるかなきかのごくわずかずつだとしても、文治に譲り渡して、そうやって文治がこの地上から消滅するのをかろうじて阻止している。そうはならないか?
小野正嗣『獅子渡り鼻』