日記

とみいえひろこ/日記

2024.03.05

普玄 倉持リツコ/訳『痛むだろう、指が』。売ってしまってもう手元にない本。

少しずつそれぞれの役割がずれている、ずらされている、という感じがこちらに残る、それも心に残る理由のひとつだったと今になって思う。役割がもう少しでもずれると大きく傾いてしまう危うさがずっとはりついている。この狭い世界のなかでもう少しでも誰かがうまく担えなかったら、終わってしまう。

読んでいて、私の信じていた価値観は揺らぐ。良いことなのか悪いことなのか、誰もほんとうは誰でもないのに、誰にとっての何をやってこんなところへみんなで追い詰め追い詰められているのか。ただ、追い詰められたぎりぎりの場所にはたしかに、「痛む」感覚があるし、誰かがいる。これは確かなこと。

誰もが、他にその役割を担う人がいないから、目の前にあるから、それを担うしかない、進んで担う。誰もが、何もない名のない自らの体でもって目の前にある役割を担い、担おうとし、誰にも教えられずにそれをはじめてやる。誰もが少しずつ無理を抱えているから、そこから表され押し出されたものひとつひとつが、こちらから、外からは何かいびつに見える。

でも、まんなかにいてただひとり黙っている者がそもそも本来の役割と違うものを担っているのだから、担わされているのだから、周りにいる者もそれに正しく応じるにはこれしかないようにも思える。

この選択や行為や考えは、たとえば「犠牲」という名前で簡単に呼ばれる(外から、二重に名付けられる)。同時に(「同時に」という条件があってはじめて)、絶対に自分ではない役割を担うことによって、「自分ではないものになろうとして」が生まれたり、「担う私」が生まれたり、「何もない、ほんとうに何もない者が、役割を担おうとする者のなかに、空洞としてここに残る」かもしれないという、「希望」というほのかなものをつくりだす。ほのかなものはやがて、何かに向かおうとしたり、影を持ったりする。手を離れ、誰でもないもののもとに唯一の誰でないものが残る。

担われそこなった「役割」や「名前」の型がぽかんと世界に残り、残っていることが書かずに書かれ、私はこの型のぬけがらを、「純粋」なかたちに近い空っぽを読んだんだった。読んだものは、今私が「読んだ」と思っていないもの。

 

 

私たちはその問いの後(すなわちこの答の不在)に次のような勧告を見出すのだ。「はじまらないこの〈時間〉とは何か、〈生〉を想定しないこの〈死〉とは何か。

エドゥアール・グリッサン 中村隆之/訳『フォークナー、ミシシッピ

 

症状が出るたびに深く落ち込むが、同時にどう対処すればよいかを考え、次に症状が出た時にそれを試してみます。そのプロセスを繰り返します。

YPS横浜ピアスタッフ協会 認定NPO法人地域精神保健福祉機構 蔭山正子『生きづらさをひも解く私たちの精神疾患