日記

とみいえひろこ/日記

2024.02.26

帰りの電車のなか、という時間を持ったことも久しぶりで、なんとなく、わかってきたような気がする。べつに自分はとくに何も変わらないし、なんとなくわかっていたことを確認しただけだけれど。でも、確認する、ということをわたしはずっとしたかったと思う。

誰の何のための名づけか、自分がどこまでのれるか、のれなくてももちろんどちらも尊重されるべきということ。

のらなくても方法は山ほどあるということや(それをどうしたらできるかということは別にして)、できることはやっていてできないことはできていない、そのあたりも。

可能性のある方法で、自分がゆるせる方法を選ぶこと、どこまでものらないでいいということや、その代償はあるということや、どちらにも知れないこと、超えられないこと、尊重すべきことがあることや。自分がやりたくない線、冷める線がどのあたりにあるかということや。なぜわたしが自分で選ぶことだけは渡したいと願っているか、執着しているかということも。

 

「自閉」という翻訳語の由来について書かれた文章があった。

 

1980年代以降,精神疾患の診断についての考え方が,個人の内的な心理状態を推測して行うのではなく,他覚的な言動によって操作的に行うことを優先する方向に進んだ。この流れの中で,主として心理状態の記載からなるブロイラーの基本症状を統合失調症の診断基準に直接用いることが難しくなった。現在用いられている国際的な診断基準では,統合失調症に関連する診断名や症状の中に‘autism’の用語は1度も登場していない。一方,統合失調症とは別のカテゴリーである神経発達の障害のグループの中に‘childhood autism’あるいは‘autistic disorder’の名称で‘autism’が残ったのである。当初は統合失調症の症状の1つであった‘autism’が,統合失調症の文脈では全く登場しなくなり,神経発達の障害という全く異なるジャンルの診断名としてのみ残ったことをブロイラーが知ったら,どのような感想を抱くであろうか?

http://s-igaku.umin.jp/DATA/64_06/64_06_02.pdf

 

その人の内的な、内側の世界観を理解しようとするには、外側から名付けられている診断名はあくまで目安として(自分で思っていたよりも、かなり、「社会との折り合い」がポイントだったり、刻々と変化する事情や都合によるものととっていいのでは)、名付けられたそれと隣り合ういろんな「症状」、その症状自体で表現されようとしている理由を知ろうとすること、名前以前の、黙っているひとつひとつのものごとをわたしの目でよく見て、わたしとそのあいだにあるものを思うこと、考えること、意味をつくることそれ自体でもって時間を刻むこと、が有効なのでは、と思った。ただのわたしにとっては。

 

私は、10余年前に出会ったママさんたちが働きたいと騒ぐ私を白い目で見た理由が、最近になって出会ったママさんたちの就職したいという声を聞いてようやくわかった。まだまだ小さい子どもがいる母親たちにとっては、そんな言葉を聞かされるのは拷問のようだっただろう。「可能でないことをどうしてわざわざ口に出すの?」、「どうせやるんだったら、気分よくやりたい」、「私の選択と私の人生を無価値なものにされたくない」、そんな気持ちだったのではないか。なのに、自分の欲望にしか目が向いていなかった私は、かれらの前でまくし立てていたのだ。働きたい! 外に出て働きたい! 息が詰まって死にそう!

 

チョン・アウン 生田美保/訳『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』

 

「自らを再生産して無償で提供してきた要素」について、それを解きほぐそうとして書かれていたもの。

ウィリアム・トレヴァー『ふたつの人生』をじんじん読んだ。最初に戻って。