日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.31

エピソードが語られ、短い解説があって、わたしは納得いかない。まったく納得いかない。でもそういうもので、人が外から理解するときは、うまく類型化を組み合わせて自分のために理解する。どこまでいってもそれだけで、エピソード自体が、語ったこと自体が、誰かに理解されることはない。それ自体の目的が届くことはない。解説というのは何の、何のための解説だったのだろう? 目的や問いがふわっと消えて、それじゃないものを渡され、消えた場所にあったものを忘れてしまう。そういう感覚でいっぱいになる。

でもそういうもので、このあたりが「わかりあう」「理解しあう」「相手の立場に立つ」といったことの限界なんだろうな、というラインの感触を、今ならしみじみ思えそうな気がして、何度か読んでいた。そんなに特別な記事じゃない。これまでも読んできたような内容のもの。

エピソードとして書かれていたことについて、このなかでこの人がとった対応は、これしかなかっただろうな、これがベストの対応だったんだろうなと思う。同時に、この対応に至るまでのたくさんの事情や理由について、ほかの誰もほんとうには理解できないだろう。それから、この人にとっての外側、つまり、本人、にとって、その対応やたくさんの積み重ねがほんとうのところどうなのかということも、もちろんずっとわからない。

 

ドナ・ウィリアムズ 河野万里子/訳『自閉症だったわたしへ』、チョン・イヒョン 斎藤真理子/訳『優しい暴力の時代』、エドワード・J・カンツィアン マーク・J・アルバニーズ 松本俊彦/訳『人はなぜ依存症になるのか 自己治療としてのアディクション』。