日記

とみいえひろこ/日記

藤本玲未『オーロラのお針子』

雪原に無音がにじむほんとうはさみしかったの片腕なくて

 

ほんとうは、ではじまることは愚痴にしかならないからさ手紙燃やすね

 

 

「ほんとうは」という言葉ほど、ほんとうは信用できないものはないはず。それでもたぶん、「ほんとうは」と告げた口から引き出される「さみしかった」がほんとうなんだろう。「片腕なくて」でさみしさのありかを、どれほどさみしかったかを、言い添えているんだろう。そこには嘘が混じっているんだろう。でも、ほんとうなんだろう。ほんとうも嘘もどちらも含み込んで、「無音」の時間に託して今言えた言葉なんだろう、今言うにふさわしい言葉なんだろう。

『オーロラのお針子』の短歌は基本的に制作順に並んでいる、と書かれていた。「ほんとうは」が真ん中に入っているほうが、後のほうに並んでいた歌。「ほんとうは」ではじまっているほうが、最初のほうの歌。

「愚痴にしかならない」と知っていて「ほんとうは」と言うときがある、大人になって。言わない無音の存在をたくさん、複雑に、自分のうちに取り込んだ大人になって言うとき、その言葉が愚痴にしかならないとしても、愚痴のなかにいろいろ混ざっているというところに何かを託せるのだと思う。意図しないほんとうも混ざっているかもしれないし、混ざっていないかもしれないし、言っても無駄かもしれないし、言うことに意味を見出せるのかもしれない、互いに。

「愚痴にしかならない」と、よく知っているのが子ども。経験などなくても知っているのが子ども、ほんとうに知っているからほんとうを決して言えないのが子ども。燃やして壊すことで潔癖を保ちたいほんとうばかりを抱え、抱えつづけるのが無理だということを知っているのも子ども。抱える腕が壊れて、潰すこと、代理を立てること、どこかへ行くこと、戻れないことと、言葉でなく出会っていく。出会うことは立ち止まることともいわれる。自分の外側ですでに言葉にされていて知っていたことたちに、あらためて欠けた自分の体で出会い直して、戻ってきて聞く「無音」のうちに、その子どもの言えなさや無言が守ってきたほんとうも混ざっているんだろう。

通して何度かこの歌集を読むとき、作者のつかう言葉自体にその言葉ひとつひとつのキャラクターがぎゅんぎゅん宿っているようにも感じて、何かと新しく会っているような気分になる。

 

 

夕暮れの腐った苺ひとつずつ潰した指で番号を押せ

 

点滴のそばに置かれたあじさいが僕の代わりに月見をしてる

 

魂魄は月の翳りでほたほたと男になったどこへ行こうか  (魂魄・こんぱく)

 

シャンパンの泡はきちんと上に行く ここまで来たら戻れないのか

 

なぜ傘に性別があるのか知らぬまま雪国できみをみていた

 

ともに住む意味があるのかわからずに増えていく下着がかわいそう

 

舌にふる蜜おだやかな夜の浴室にあなたの少年である

 

ご覧あの羊はそこで情死する夢をみながら無花果になる

 

引っ越しのような夜にてあたらしい男が爪を切りにきている

 

 

藤本玲未『オーロラのお針子』(書肆侃侃房)