日記

とみいえひろこ/日記

2023.10.31

・久しぶりに、Spotifyで音楽を流しっぱなしにして仕事などをしていた日。夜になる頃には、Spotifyのセレクトでずいぶん遠くまで旅をした感じがした、けれど結局いつも同じところに戻ってくる。

・私はうっすらまだそのやり方を期待していたんだな、ということに気づいたのと、そのやり方はこれからも無理なんだな、と受け止めたことがあった。と思う。じゃあ、ここにこれをこんなに費やしていていい、とも思った。これから、どうしよう。でも、いろいろな条件が関わる。向こうが弱まって、ああ、もうやっぱり無理なんだな、とこちらに分かるレベルになったともいえる。

・結局、この立場になったものがひととおり経験し考えることを訪ねていっているだけで、私の周りの役とも、私の対象とも、このまますれ違いつづけ、ぜんぜん違う位相のことを、挨拶などしながら、それぞれが経験しきることに尽きる、というだけなのかもしれない。私が私として対象と関わるにあたって間違っていないというのなら、私が黙りたいと思うことについては黙って、関わらないでいいと思うことには関わらないで、時間をつくろうとし、線やルールや方法をつくっていく。それだけなのかもしれない。

 

真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡 東アジアの「余白」を生きる』

 

「象徴」が文字通り、言葉通り書かれている、そこのところを、私は私のものとして引き取る。私のなかで出会わせ、よく分かると思う。いつもいつも何割か納得のいかないことが残る、それは私の「余白」のエリアで、そこが分からないのと、守りたいのと、そここそが私に関わりがあるところなんだ、頼むから、もういいから。ここがあるから、ほかの分かっていること、分かられていることの意味がぜんぜん、まったく、違ってくる、意味がない、無駄、消耗する、といつも感じてしまう。分かって分かち合って、ぜんぶ捧げているような、感じだろうか、向こうも。と思うところのその育たなさこそを、何度もやる時間なんだろうか。まだ、もしくはやっと。

 

TEACCHとは、「所与の構造化」からのフィードバックを通し、当事者自らがその「生活シナリオ」を描けるようになること、自分にもっとも適した環境を構造化できるようになることで、就労などの人生設計に関する願いを達成することに、最終的な目標があるのだと思う。

 

(TEACCHの「構造化」と通過儀礼の構造や意味とを、似ているものとして引き合わせて)通過儀礼は「分離」「移行」「統合」という3つの過程から成るが、境界性や両義性を示す「移行」は、敷居、門、扉などを越えるという物理的なイメージで示される。通過儀礼は、今まさに直面している状態の変化に対して「トランジション・エリア」を与えるプロセスであると同時に、これから直面することになる未来の人生に対して「見通し」を与える長期的な「生活シナリオ」ともいえる

 

書かれると当たり前のことなのだけど、私はわたしとしてこのことに深く揺り動かされ、分かると思い、

 

その時、私は自分自身の内なるひとりぼっちの思いとともに、安心していられる場所を見いだしたことを痛感しました。そこがこの学校を終えた後の、自分自身の将来について、私が思いを巡らす場所となったのです。屋上へ続く小さな木の扉こそが、私が自分の将来に脚を踏み入れる象徴だったのです。その扉を経て屋上へ出た時、私は自分自身が自分の人生を握っている鍵なのだ、ということに思い当たりました。(グランディン、2005:13)

 

これも当たり前のことなのだけど、

「問いを立てて、答えを生きる」ことのそのままが、死と生の話で出てきた断絶を前提として書かれている。と思う。その断絶を扉として、私は私に籠もるようにして読んだ。