ここ何ヶ月かは、1、2、3時頃寝て、5、6、7時頃に目が覚めて、ヨガしたり寝たりしながら、何時間かかけて目を覚ます感じ。日中、何回か、何十分かの昼寝は吸い込まれるような感じ。
アニー・エルノーの書くものはほんとうに自己治療的な文章だと思う。個別具体的で普遍とも切れておらず。
二十二歳のとき、食卓で両親と口論したあと、日記にこう書いた。「どうして昔からずっと私は人を苦しめたがり、それでいて、どうしていつも自分で苦しんでいるのだろうか」
子供時代に起こることのうちに、あらかじめ名前のついているものはない。当時自分が何を感じていたのかはわからないが、私は悲しくはなかった。「騙されていた」に近いものだったけれど、何年も後に読んだシモーヌ・ド・ボーヴォワールの著作に由来するこの語は、非現実で重みがなく、子供の頃の私のあり方には当てはまらない。長い間探し求めた末に、一番ぴったりで反論の余地のない言葉が脳裏に浮かんだ。信じやすすぎたという言葉だ。通俗的な意味で私は信じやすすぎて、バカにされていた。幻想の中で生きていたのだ。
私が書くのは、あなたが死んだからではない。あなたが死んだのは、私が書くためだ。ここに大きな違いがある。
自分の癖、つまり、おそらく、自分の、現実の受け止め方のなかに住みながら、それにいろんな言葉を当てはめてきた。いろんな言葉が当てはまってしまうということで、これがいけるところまでずっと続くのだろう、それだけなのだろう、と思っている。それだけをもとに。だから、根源的な受動性といわれるもののあり方、まわり、が気になるのだと思う。