日記

とみいえひろこ/日記

「柊と南天」5号から

似ていると思う話を挙げてみて水面は空を映し続ける

野良猫に出会った通り老猫は誰に飼われることなく生きる

 

竹内亮/似ている話

 

十首中、まんなかにある「水面は空を映し続ける」歌。ここから裏返って「空が水面に見られていることを知っていく時間」が流れていく話。という読み方、映し返し方を心のなかで「挙げて」みる。「挙げてみて」と誘われたと思って読んだため。

野良猫に出会ったとき、その野良猫に私はじっと見られただろう。〈飼われたり飼ったりする人間・私〉の生き方、様式と、〈誰にも飼われず、飼わせず、飼わず生きる老猫〉の生き方、様式。そして、その様式を得るために費やした時間を、人間・私は見ただろう。ばったり出会ったひとりと1匹。その〈ひとり〉の人が「老猫は誰に飼われることなく生きる」と考えている、と思って読んだ。そういう仮定、約束がこの歌に書き込まれている、と思って読んだ。

遠くから一方的に映し続け受け取り続ける水面と、見られ続けることをゆるし続ける空の関係性のなかに、ふとかすかに、ごくわずかに、信頼や励まし合いといった心の動きのようなものを感じた〈人〉が見えてくる気がしてくる。その〈人〉はここに書かれていないけれど、この歌という水面に映し続けられる私が、歌に誘われて私のなかにつくった〈人〉であって、誰でもないし、誰でもあって、私でもある。

 

 

 

やまぼふし、ゑごのき、うつぎ、梅雨前は真白き花の多く咲くとき

雲としてとどまれざれし雨粒が落ちくる風に嬲られながら

 

加茂直樹/104.5度

 

「嬲」は「なぶ」る。すごい字。風に嬲られるという困難のなか、雲は雨粒に変わらざるを得ない時がある。雲は姿をなくし、雨粒としてばらばらになって生き延びる。風はいつも風。水がいつも水であるように。風は目に見えない、見えさせないためにいつもつかみどころがないけれど、嬲らざるを得ない何かが、風のなかのどこからかどのようにか起こってくるのだろう。目に見えない秘密のもの、生と死のあいだを行き来してはときに嬲るということをせざるを得ない風。そういうありかたとどこか似ている「水」を体内に入れないと生きられない、人も花も。つよい硬い文体の隙間にそういう弱さが含みこまれている連作だと思った。

6号の「孤の静謐」の歌はぜんぶ好きだった。

 

 

まるいのだからまるいまま伝えたいけれど木漏れ日は仰ぐ顔を傷める

ほそい壜(いわないことを択ぶから)その水面しずか硬貨のように

 

中田明子/静かな硬貨

 

うす曇りもののふちどり浅くして雌雄以前をとおく呼びあう

うちがわにある雲そのまま浮かべおき雲だなあ、ときどきながめる

顔に風、うけてほどかれゆきながら風のうまれたほうをみている

 

中田明子/まばたきの前後(この3首は「柊と南天」6号から)

 

くらき海ほたる烏賊あふれ口数のすくなき街と遠くつりあう

「柊と南天」3号のこの歌の言葉にならない世界の印象を、頭のどこかで長く覚えている。「遠くつりあう」ことができるだろうか、という思いをはっきり持ったり、「あふれ」のあとに来る「口」に、「口数のすくなき」あり方に遠く底のほうで励まされている。あふれて、受け止める先があって、それはいかようにもある、というあり方に。

中田さんの作品は、静物画、Still Life を観るのと同じように、自分のどうしても生きている感じをこらえて抑えて、静かな呼吸に共鳴していくように読まなければと思う。

自分の日常に引き付けて思うに、まっすぐにそのままを伝えたい(自分にか、目の前の相手にか、ここにいない誰かにか、いずれにしても)ときこそ、そのまま、生きている自分の自我が感じたと思ったように伝えては全然駄目なのだろうと思う。そのまま渡すことはあまりに乱暴で無鉄砲なことで、「伝える」というのはもっと時間をかけることなのだろう。

伝える手段や伝えるために費やせる時間を持っているというこの強い状態は、浴びている木漏れ日の感じを傷みとして受け止め受け容れる基盤でもある、ということをどこかで感じていること。

伝えられたものを受け止めるには顔という基盤が必要で、「まるい」を持ってしまった私は私の「伝えたさ」を「まるい」あり方に沿って抱える時間を過ごさなければならない。そのことはやがて「伝える」ことに通じていくかもしれないし、通じていかないかもしれない。

ほそい壜、その水面のしずけさ、硬貨の光の硬さや眩しさといった静物のなかに、かっこで閉じても「いわないことを択ぶ」沈黙という自我が異物のように際立つ。言葉にする前のこと、言葉になる前のこと、ふちどりやうちがわを見ようとする力の働き、「とおく呼びあう」切なさのようなものがいつも直截的に描かれているように思う。ここを描くのは危うさとセットで、とおく呼びあうさみしさ遠さを揺れながら保っておくことの緊張感も描きこまれているように、いつも思う。

 

 

幼いと右の手が言う左手はおとなだよとかばってくれる

安倍光恵/家族の一日

 

気に入った作品一つ決め置いて密かに戻り別れを告げる

丘村奈央子/アートに会いに行く

 

ラジオ体操流れるホールの片隅に無口な二人が並んでいち、に

 

乙部真美/星よりも遠い

 

サクランボの片割れのように会いたくて空見上げてる雨の日のせい

中島奈美/君との雨

 

黒光る水牛の角 捕らえられ折られ裂かれて彫らるる後を  (彫・え)

永野千尋/無名指

 

雨粒は髪にはじけて浮遊するそのなかをかき分けてくる花

池田行謙/廃版海図

 

指の間を流るる砂の感触に解けてゆきぬ怒りに似しが

永田淳/小吟

直角にやすやす人を折りながら眩しさのなか西壁は建つ

永田淳/放浪の歌(「柊と南天」6号から)

 

 

「柊と南天」おもに5号から。同人誌や雑誌、物理的に軽い薄いものというのは鮮度自体にも価値があって、そこに何かこもっている気がする。同時に、私には鮮度は重くて複雑で受け止めきれない、すこし離れていたい。時間が経って何かぜんぜん違うふうに読める感覚はおもしろい、ふわっと、不思議な、すこしのさみしさがほどよく糸になって、やっと今とつながれる感覚になる。