暑くて、外に人がいない。目をあけて犬を見ていてもぼーっと眺めているだけで、自分がものを見ていないと気づく。わりといろんな音が雑多にあると気づく。
『ナムタル』はあまり人の気配を感じない歌集で、コロナ禍をはさんでつくられた歌集だからということも大きいのだろうけれど、こんな、人けのない夏に読むのにいいと思う。うるさくないものに浸る時間がどこかでほしいと思う、判断停止したいと思う。そういう思いが文字に沿ってほのかに湧いてきて、湧いてきたあとに、なにか、人の決めたものではない法則や感情で動くものがここに書かれているのをみつけて落ち着いていた自分に気づく。
湧いてきた心の動きにおされて目の前のことに目と思いが向きはじめてきたら自分に気づき、止めている/止まっている/動いているはずなのに動いていないいろいろなものごとがやっぱり気になり、読んでいたのを閉じて、戻り、なじみの感情をもとにどんどん戻っていく。
最後にはなにかひとつ、いい思い出になればそれでいいんじゃないかなと思うときがある。ものごとの価値も常識も数年、数日、立場状況によりけっこうあっさり変わってしまうものだと知ったし、自分のなかでどうしたらどうなるのかということやどうしたらいいのかということを考えているつもりのことにほとんど意味はなく、身の回りの雑多なことというのはいつも思いもよらないかたちでどうとでもなってしまい、生き延びてしまう。そういう実感を積み重ねる。
「獅子という字は、本物の獅子の影」(中島敦『山月記・李陵 他九篇』から)だとわたしたちが信じ合えているかもしれないという約束、が有効だという仮定のもと、「うつし世はうつす世のことかもしれず」と内側で心のかたちを遊ばせるくらいの隙間がある自分のからだを確かめつつ、何も求めず「凝視と静観」に戻れたらいい、と思い始める。
歌のかたちに沿って投げ入れられた言葉から次の句の言葉がひっぱりだされるような、そういうつくりかたをしているんだろうかと思う歌に目が留まる。歌のかたちはそういうふうに歌をつくる時間のなかで手探りにさぐられてつくられ、心や思いのほうがあとから来る。歌のなかでほんとうにたしかにそう思われてつくられた歌というわけじゃないんだろうな、と感じる歌もいくつかあって、読んでいてむしろそちらのほうが気持ちよかったり、遠ざけたいような気持ちになったりもする。ひとつの歌の時間のなかで、心や思いといったものが動き、ある独特なかたちがみずからの可塑性を豊かにしていくのを見ている。読んでいる私の心や思いは案外かんたんに変わる。どうでもいい(どうなってもOK)、どちらでもOK、それでいい、と思うことは多く、でも、もっとずっと先の何かにとっていい思い出になればいいんだろうな、というひとつの価値観は、与えられてそのまま受け取っているだけのものかもしれないけれどあまり変わらない。変わらないものの、もう少し豊かにしたり何かしらの意味をつくったりしていくのだと思う。
一度遠ざけ、何度か戻り、自分のほうへたぐり寄せたくなった歌。
鏡にはかならず泣き顔がうつる雁字がらめの枯野がうつる
あの黄色い建物がそう 片翅のない蛾のように近づいていく
ムクドリが飛び去った樹にいまもなお語り続ける僧侶だろうか
晩年のカサノヴァは司書だったこと 広場の古い井戸にもたれる
燭台を水にかざせばひかりから解き放たれたひかりが落ちる
長い歯みがきの途中でふたりからふたりに戻りたいとあなたは
あなたから忘れてほしい虚無感と虚無を交換したあの夜の
一切の希望を捨てたことにしてうるう卯月のベーグルを焼く
土岐友浩『ナムタル』
装画・古井フラ 発行・西瓜