もみ殻は堆のごとくに積まれゐて誰か小さき火をつけに来る
晩秋の風に吹かれて永遠にあゆみ去ることありや人にも
転がれるパッションフルーツの傷口が濃くなりゆく昨日より今日
しづかなる夜更けの道を犬の啼く声をまねびて男が過ぎる
朽ち果つるものの一つか夜の灯をうけて木椅子の象定まる 象・かたち
窓ぎはの鏡の縁をゆつくりと今日の夕日の消えてゆくなり 縁・へり
村ひとつ消え失せしごとき夕ぐれか草やくほのほひとつのこりて
裏切りしもののやさしさ冬土に大根細く青首を出す
『漂鳥』
生臭き魚卵にほへる海の村風かすかにて世のゆきどまり
『薊野』
『富田豊子歌集』(現代短歌文庫)から。
「この世界の片隅に」「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観たら、少し古い時代の雰囲気が自分にとって少しファミリアになり受け取れるようになった。何か、この時代のすきま風の感じとこのひとの情感の混じったさびしみ、深みが妙に好きになって、手元に置いている。どうしてこの歌集を買ったのだったか。「ゆきどまり」の歌を探しながら読んでいたら、『薊野』のほうだった。
たとえば何も手に持っていないとき、何も間に合っていないとき、足りないとき、かたちのないあやふやな言葉だけはまあ自分のなかにある。手持ちのもので、自分のなかにある言葉で率直にものを見ること、秩序立てていこうとすること、境界を見きわめて今日を終えること…といったことが必要な時だったんだろうか。などと思う。消えてゆく時間とわたしとのつながりや、物象とわたしとの断絶のありさまをたしかに見ていこうとすることが、必要だったんだろうか。
境界を「つくる」ではなくて、じっと「見きわめようとする」感覚だと思う。ものの息をはげましたたえるような、風のあり方が恩寵のよう。さらにさらにさらにいくつもの、はじめにはいつも悲しみがあるんだろうか。悲しみ、として名付けられそうな何か存在があって、風がそこを呼ぶ、起こす、生きさせて死なせる、背を押す。