日記

とみいえひろこ/日記

2021.12.12

12月上旬までには出します、と言って延ばしてもらっていた件をやっと送ることができた。日中は10分以上それだけに集中してとりかかれる仕事ができないと思う。休憩もしている。夜中と休日で外に対してはなんとかつじつまを合わせていて、家のこと、人のことをやるべき時間にそれをしているから、ずっと、かたちはいくらか変わったにせよ、罪悪感しかない。ほんとうは、つじつまを合わせてからのことをやらなければわたしには何の意味もないので、目の前のことにこたえつづけて疲労するわりに、やるべきことがぜんぜんできていない、何も追いつかない、という情けなさがずっとある。視界の霧をとりはらう、という意味でなんとか役には立っていると思うけれど、ほんとに必要なのはそういう役ではない。霧をとりはらうにしても、ひとつひとつ何か違うやりかたがあるはずだ、でもわからない、と思う。

自分が何も考えずに飲んでいた価値観にすこし気づき、自分のできる範囲をすこしわかり、それを糧に目標と目的が細かく変わっていく感じは良いと思う。これは自分のなかだけでわかっているだけで、何のかたちにもなっていない。自分の安心のため。

 

本人が言葉にするなり、自分とべつのものだと切り離す表現ができるようになることは良いことだけど、弱いところにいつまでもいて、その役を自ら引き受け、どう弱いかを説明しつづけなければならないと感じる状況や関係はだめだなと思う。

聴きつづけ、他人なのに、何の知識もないのに、何の責任もとらないのに、こじあけつづける、という状況や環境は、とてもよく発生しがちだと思う。わたしはそのどちらの立場にもよくなる。自分がどこにいるかはわかっておかないといけないと思う。そして、こういう状況は山ほどある、そのたび極端な答えを出しがちだったところを、ほどほどに、それはそれとしておいておくという方法を学んでいきたいと思う。

 

とりかかっていたこと、いることは、とても楽しかった。まだ終わっておらず、始まってさえいないけれど。もう駄目かもしれないといつも思う。もう駄目なのかもしれないけれど、駄目なのなら駄目とわかることは良いことではある。表現方法それぞれにルールがあって、関わって作業していくことでどこにそれ自体のいい位置があるのかということを探ってゆける時間を、とても貴重に思う。