仕事が止まることの不安もあって、年末年始もやらなければいけないことをけっこうつめこんでしまっている。やりとりが少なくなっていく時期で、クリスマスが過ぎ一年を終えていくことに向かう静けさがあって、リラックスしてやっている。もっと、変化をつけて良いのだと気づく。詰め込みすぎていない。
返ってこないだろうと思っていたもの、返ってこないことをわたしは見届けて自分のなかで何が起こるかを見つめようと思っていたものが、返ってくるという。でも、ああ、ここで何か力関係が変わる感じがする。とふと思う。そんなことはない、流されて変わる変わり方とは違うふうに変えることがしやすいタイミングでもあるのかも、と思う。
3月までに整えておきたいことや気にしておきたいことの方向性は自分のなかではわりと明確で、終わらせたいこと、何かひっかかっていて向き合わなければいけないこと、終わらせなくとも関わり方を変えたいことなど。3月を過ぎても、膨大すぎる、とも思う。目の前のことをやっていけば思わぬところで本人がすごい力で切り拓いていくものだ、とも思う。ただ、それが起こるのはほんとうに「思わぬところ」だから、とは思う。これでいいんだろうか、もう違う段階なんだろうか、と思う。しなくてはいけないけれど今同じやり方でやってもだめだと思っている。これらを、違う相手にそれぞれ思う、ことを自分のことを一緒に混ぜ合わせて考えている、考えないと、とずっとぐずぐずやっている。
大山エンリコイサム『ストリートアートの素顔 ニューヨーク・ライティングの文化』(青土社)。そんなに凝っても変わってもいないけれど、装丁がとても好きになって書店に2度ほど見直しに、触れにいった本。ライティングの特徴でもあり象徴でもある匿名性。「匿」の場から世界を見渡してみることなどを思う。そこからはすべて、ありありと見えるように思う。
最後にとても惹かれた一枚の写真があった。消すように引っ掻くこと、わたしがここにいるという刻印が空気に触れて引っ掛かれ汚され、消えていく過程を記すこと、その動機や衝動、焦げてにおう。見るわたしが負っている「名」みたいなものの有り様を揺らす。