日記

とみいえひろこ/日記

2022.01.28

ロッテリアどこにあるって聞かれたら九十九年の夏の新宿

鈴木晴香『心がめあて』(左右社)

 

この歌が何ヶ月か頭から離れなくて、妙に執着してしまう。眩しくてたまらない。眩しさ、切なさ、塩辛さ、恥ずかしさ。誰のものでもなく、もうどこにもない経験や感覚そのものが「九十九年の夏の新宿」に埋め込まれてある。取り返しがつかないし、それはただ埋め込まれてあるだけで、現在の自分にとって何かいい働きをしてくれるということもない。埋め込まれてあるからどうっていうことはない。「九十九年の夏のロッテリア」の思い出はあってもなくても、どちらでもいい。どちらの人生でもOKということ。

「九十九年の夏の新宿」という居場所をしめされることで、ないのに、ないものが内側からこみあげてくる、水位を上げてくる。自分のものでもないのに。

 

もし、神戸の震災がなかったら。震災がないまま九十年代の神戸が続いていたら。というコンセプトでつくられた曲がある。「九十九年」が歌のなかで絶妙に働いているんだろうかなどと思ううちにその曲のことを思い出した。ラジオで(radikoで)この曲のことをたしかに聞いたはずで、探し直して辿り着いた。

Tsudio Studio “Port Island”

Port Island - Single by Tsudio Studio | Spotify

コンセプトを耳にしたときにクラッとしたのを覚えている。「もし」ということを、とくに過去のことについて「もし」ということを想像してみることがわたしはほとんどないなと思う。どうにもならないから。どうにもならないから、と思ってきたけれど、「どうにもならないから」などという価値観は、「もし」という言葉のもつ働きや意味や価値にぜんぜん対抗できない、そぐわない。「もし」を思ってみないことの理由などにならないし、話がずれているんだと気づいた。「もし」は「どうにもならない」ということなど当たり前に含んでいる言葉なのだろう。「どうにかしよう・どうにかできるかも」というものの見方とは根っこから別ものなんだと思う。

「もし」という言葉は、「ない」ということを思い切り噛み締めさせる。どれだけつよく噛み締めても大丈夫で、どれだけ感情をぶつけても平気。「ない」は傷つかないし、反発してくることもない。「ロッテリア」があるはずの「九十九年の夏の新宿」は淡々と、ずっと、「ない」。

そのままわたしは九十年代の曲へ流れ、興奮したりする。何らかの感傷を抱いたりする。

流れていくわたしを見送りながら、「ない」がそのまま、どうにもされずに、どうにもならずに、聞かれもせずに、「ない」を生きている。