日記

とみいえひろこ/日記

2022.04.22

自分たちのために、一緒にみてもらうために、自分のために、などの理由で各方面あてに同じような記録をつけることになった。おもに自分の納得のために、なんだと思う。ただ、このペースでいくのは無茶で、そのうち落ち着きどころがわかると思う。たとえば「このペースでいく」のが目的になって自滅したのが昔。〈きのう〉のうちのどこか。

このような、力の入れ方や方向をぐっと変える頃合いというのがあるのだと思う。今日はこういう感じなんだ、今はこういう感じなんだ、というのを恐る恐るわたしは後ろから見ている。一方向からしか見られないから、関わってくれる人たちには、一緒に見てほしいということだけを頼んできた、つもりで、それが伝わっていたのではなかったのかもしれないと思う。自分のしどろもどろさが伝わっているなら安心する。

一週間後はどういう感じになっているんだろう。明日どうなっているかわからない、または明日もこんなだろうという感じのときとはちょっと違うと思う。読めないことがほとんどで、ただ、読んでいる感覚、読みがいがある、という感覚がある。ひとりずもうではない感覚。もとからそうだったところを、わたしが、自分の引きどころを少しわかってきた感覚。または、やっぱり相手のなかに、外側へ向けていく力がついてきた感覚かもしれない。

自分が犠牲にするものが同じだとも思う。またこうなってしまうと思う。5時間ほど集中したいことがあって、大事にしたいのに、そこに行くまでが無理で、返事、返事、修正、修正、それで疲れ果ててしまう。もう捨てられるのではないかと思う。駄目にするのではないかと思う。ここも、別の次元でわたしには大事で、力の入れどころなんだということを犠牲にしている。ほかにももっとある。ここだけはと当たり前に大事にしているつもりだった。ほんとうに。とにかく「こなす」ことに力を注ぐうち、こなす態度がこんなにべったり身についてしまった、と感じたことがあった。恐ろしいのは、このことをまず外側のせいだと考えること、が、身についていること。

もう、ここにいるんだ、だから目的や試すことを変えていかなくてはいけないんだ。毎日毎日見ているものが今実際に自分たちがいるらしき場所に気づくのが遅れてくらくらする。ただ、〈きのう〉のことを知っているのはわたしだけで、このように遅れをとる役ということにも何か意味のようなものはあるのかもしれないとも思う。

 

なにもできなくても、見ていなければいけない

 

この「命題」は、ひとりのなかで固有の時間を経て、もっと幅のある、たくさんの〈きのう〉をも含めて自分の、自分たちのぜんぶを肯定するゆるしのような尊厳のような、外との通路にもなるような言葉になった。そう読んだ。文章のなかで命題を先に読んだから、そのいきさつがよくわかる。「命題」と受け取ったいきさつのいきさつも。本を閉じると、でも、命題が時間を経て言語化されるようになったそれを受け取るのはけっこう難しいなと思う。読んだときはっとしたのにその言葉が含む意味はわたしのなかで泡のように消えてしまい、そらぞらしいただのきれいごとにも思える。〈きのう〉の後ろめたさに、ぜんぶの失敗に、どうすることもできない否定の感覚に、悔いに、縛りつけられている、通路の閉じられたほうの、言葉以前の、放っておいて先へ進むのはゆるさないという命題のほうに、それを命題と受け取ったことのほうにこだわっていたい。そのほうがいい。今は。お互いに。と思う。

宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店))

 

水に浸けている豆苗が毎日ひゅるひゅるのびる。犬が一緒に食べてくれるのが嬉しい。