椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって
何度でも、このはじめの歌のこぼれる場所に戻りたいと思う。
・歌集を読み始めたときは、出てくる言葉がいちいち自分が普段用いている意味やトーンと違う使われ方をしているような感覚があって、しかもそれらが組み合わされ複雑な働きをしている、その働きの感覚にくらくらして、
反発したりあとに戻ったり、迷い込んで自分のいる位置がわからなくなったりした。
・などと思いながら読んでいると、あまりにまっすぐすぎる剥き出しの言葉が転がっているように感じる歌もあったり、何なんだろう? と思う組み合わせがあったりして、難しかった。
・そうして、何度か読んでいると、いつ自分がそうなったのかわからないけれど、とんでもなく好きになってくる、この歌もこの歌もいい、と思う。戻るとまた別の歌に出会う。
・言葉を削り削り、正直な言葉を残しているのだろうか、言葉を削っていくときにどんどん息が浅くなるような韻律の調整が自然になされているのか、その調整の時間と一緒に、水のなかにいるときのような息の苦しさにうわずって読んでいくような感覚になってしまう。
聖歌隊としての「ひかり」たちの存在が眩しく、歌を読むときに視覚も触覚も聴覚も嗅覚も、味覚もなんだかほとんど感じない、と思った。
でも、〈呼吸の体感〉とか、〈心の体感〉とでもいえばいいのか、なにかマージナルな、境界線を溶かして自分が別のものになれそうな、でもやっぱりなれなさそうな、溶け出したはいいもののついに自分に戻ることもできなさそうな、ゆきばのない、ゆきばのなさの体感がある、ような気がする。
・ああいいな、と思ってかんたんに歌に触れてしまっては歌もろともだめになってしまう感じがする。読んでいるわたしと、このわたしの手元にきた歌の世界に境界線はないようだけれど、この言葉の世界のなかに自分が入っていって一緒になってしまってはすべて終わって消えてしまいそう。あれ? またこれでいいのかよくわからなくなってきた、と思い、はじめの歌に戻る。ひとつひとつ、やっと息がはじまる。
椅子に深く、でも、この世からは浅く、となるとどこに深く自分のからだが食い込むことになるのだろう、自分がどうしたらいいか定まらないし理解できない、そんな微妙な位置をとることなど絶対にできない感じがする、こぼれる。こぼれたら自分の位置がわかるけれどこれは違う。
もしもぴったり何かここで指示されている世界にはまることができ、自分と世界の間で的確な関係をもし結べたとしても、その瞬間にこぼれおちる何か名もないものが絶対にある。その、こぼれる、を、掬うことこそ真実らしいが、絶対に掬えない。その掬えなさ感、掬えないけれども見守る感…もっととおく、見えない「手綱を付けておく」感、もっともっととおく、壊さないように、「こぼれる感じ」のことをひそやかに記す、あらしめる、という、弱い強さを思い出せる場所に、思い出せそうな場所に…というか、そんなこと二度と思い出せないのかもしれないというおそれを抱きつつ、何度でも戻りたいと思う。
あなたよりあなたに近くいたいとき手に取ってみる石のいくつか
厳かな、夏の折半(見た景色をどうかそのまま教えてほしい)
銀杏を遥かに踏んで(エミーリエ・フレーゲ)秋に許されながら
銀杏=ぎんなん
書かなければ消えてたはずのさびしさに手綱を脆くても付けておく