日記

とみいえひろこ/日記

2021.03.17

伊藤亜紗『手の倫理』。読みながら、小学生とか保育園児とかだったときの自分が嫌だった手のこと、好きだった手のことを思い出していた。それは明確に自分のなかで決まっていたし、自分だけに分かる、自分だけの、嫌な手、好きな手だと思っていたから誰にも言わなかった。

ここに書かれている言葉に(気づけば)ふれているうちに、どうしてか、自分が言えなかったことや自分だけの感覚だと感じていた記憶とつながっていく。手の倫理で世界を見ようとしてみることは自分が記憶のひっそりとした存在とつながっていくこと、につながっていく。つながりをつなぎなおそうとすることに。

この延長線上に、自分が聴けなかったことや、自分にはどうしてもわからない他者の感覚の存在を思うこと、思えないこと、があるのかもしれない。あるのだろうと思う。

 

髪をさわられるのが嫌いだった。アトピー持ち独特の触感に関するこだわりや反応、ふれてくるものの受け方をまだずっと自分のなかに持っていることを思い出した。そばにいるひととの時間の流れがはっきりと違うことを思った。感情に良い悪いはないということも思った。ふれる手前にあること、すっかりなじんでくたくたになったもの、擦り切れそうなもの、古く、懐かしいもの、逃れられない現実を、目を使わずに見たような気になった。それらの存在している感じ、に、圧倒されそうになる。圧倒されそうになるけれど、圧倒されないでここで外側にいるつもりで余裕で読んでいる、と思う。

 

アタリをつける、という作業をわたしはいつもしていると思う。生活している自分がいて、自分が日々関わっているさまざまなものにそれぞれの価値観があり、それぞれ真逆のことを言ったり相反していたり、反発し合っている。どちらも自分にないと困るから、そのときに目の前に現れるものにわたしは反応を返す。

もう理由が変わったからできれば身をひきたいと思っているものももっとちゃんと没入したいものもある。そのすべてが自分の選んだもので、自分のなかに反発くらいはないと困る、必ず自分の手に逆の価値観をもつものを持っておかないと不安で仕方ないのだと思う。何かを手にしたら衝動的にそこらへんにある反対に見えるものを手にとろうとする。両方を持っておく矛盾によってなんとか自分が成り立っている、という感じがずっとある。だからどうなんだと思う。矛盾によって先にも進めず後にも引けない、苦しくも満腹で動けない、その状況にくるまれていたい、何回もやり直したい、みたいな感じだろうか。

 

伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ