日記

とみいえひろこ/日記

2022.06.16

オルナ・ドーナト 鹿田昌美/訳『母親になって後悔してる』(新潮社)。

 

たとえば私は人と目を合わせるのがほんとは苦手なのではないかとつい最近気づいた。でももうこんなところまで来てしまって、すでに苦手でもなんでもなくなってしまって、ほんとのところはどうなのかわからなくなってしまった。自分より人のほうが私の苦手さをよくわかっていることはほんとうにたくさんあるだろうな。当然、苦手がっていると私が思っていると思われていたはずだろう、というところまではわかる。自分がほんとに苦手かどうかは、わからない。

たしかに苦手ではあるのだけど、それは、もうどうしようもないし、代替案を考えるほどのことでもない、ということに、気づいたときにはもう自分のなかでなってしまっていた。苦手なことの感度自体を何かの方法で下げてしまった。下げてしまったのか、上げることで奇妙に理屈をつくってきたのか。

心のなかでなら何を思っても良いと自分にゆるしているはずなのに、自分が思うということを思いつきもしない、ということはたくさんあるはずだ。

この本で書かれていることはまったく特別なことでもセンセーショナルなことでもない。このことについて、自分のなかにも「後悔」という端的な言葉に集約されていくような思いがどこかにあることはわかる。もしかしたらどっぷりそうかもしれないけれど、自分は後悔していないほうに分けられるだろう。と、当たり前に自分を分類しながら読んでいくけれども、つきつめていくと、ほんとのところはどうなのかわからないはずだ。私はそこまで考えたことない、自分がどう思っているのかわからない、というところにいることはわかる。なぜ、何を犠牲にしてやっていけているのだろう? 

とふと思ってもよさそうなことが、ほんとうにたくさんある。

何度も思い出し、そのときに自分はどうしたか、どうすればよかったかということを考える、ということを、こまぎれに、ずっとしている。それをすこし意識的にするタイミングがある。それはもう無駄なのだけど、これからの自分にとってだけは、無駄ではない、のだとは思う。ただやっぱり、自分以外の誰かにとっては、過去も未来もこのわたしの後悔が役に立つことはない、無駄だということも思う。

 

どんな社会的状況や領域であれば後悔を表現することが許され、さらには当然と受け止められるのか。または、それを抑制することが要求される状況とは何なのか。さらに、社会が時間と記憶をどのように扱うかについても検討する必要がある。というのも、後悔とは、過去と現在、そして実在と記憶の間をつなぐ心の状態であるからだ。

 

このあと、直線的で基準的、絶対的な時間のとらえかたと主観的な時間のとらえかた、「未来を改善することを目的としない/保証しない」時間のとらえかたについて記される。

 

ソフィア 1〜4歳の2人の子どもの母

自分の気持ちを話す前に、状況を読むようにしています。[あなたには]最も率直な自分の気持ちを話せます。それがあなたの目的ですし、何か[ネガティブなことを]感じたとしても—私に言わないでしょうから。それに、あなたは母ではないという、別の立場の人ですから。あなたが母なら、たちまちわが身を振り返ってしまうでしょう。親にとっては、非常にストレスのかかる話題です。わかりますよね?

私は、だれかれ構わず[母になって後悔していると]言いません。話しても大丈夫、他の意見と同じように受け入れてもらえる、と確認してからです。

 

自分で自分に話すときも、そうだと思う。そしてもちろんこの内容でなくとも。自分の状況を読んで、自分にはこれ以上話せない、と感じてきたことは、とても多いように思う。

内容に関わらず、「後悔」という主観的で目的のない、言葉や意味のない時間の存在について、そしてその存在と私というものとの関係について書かれている本だと思う。後悔をすることは自分で自分につながりにいく行為なんだとわかる。ぜんぶ自分の思いでありながら、それがぜんぶ自分で責任をとることや、言葉になることとイコールで結ばれない、という自分のつながり方をさぐる行為なんだとわかる。