日記

とみいえひろこ/日記

2022.09.11

謝るとき今ならわたしなら

失礼なことをしてすみませんでした。

と伝えるのがしっくりくるかなあと思う。

「傷つけてごめんなさい」(「傷つけたのならごめんなさい」)という言葉はもっとも嫌な言葉のうちのひとつで、まだこれ以上こちらの心に踏み込んでくるのか、と感じさせ苦しめ追い詰める言葉だとわたしは思う。自分に関係ないことでもこれに似た言葉がとても気になる、嫌だと感じてかなり息苦しくなる、逃げたくなる。もうぜんぶ嫌になる。傷ついたかどうかを決めるのは、本人が、もっと時間が経ってから、決めるかどうか自体を決めることのはずで、人の状態や心の動きを外から名付けたり誘導する言葉、決めつける言葉をなぜ使うのか、重ねるのか、と思って憎んできた。そして、わたし自身がこの「外から名づける」行為をしていることも。ここを、ずっとどうしたらいいのかと思いつづけている気がする。

ただ、このことについては感情のことは関係なくて、アイメッセージかユーメッセージかという違いを見たらいいだけなのでは、と思った(自分のことにおいて)。翻訳、代理、「外からきて(わたしが誰かになって、未知のものへ向けて)問い直す」、という行為自体は、言葉で成り立つ関係性のなかにとらえられている人というものの本質のひとつのはず。外からきたわたしは透明になることはできない、という条件があるなかで、物語や創作やアート、または症状という考え方、方法、価値観…が生み出されてきたんだなと思った。誰もほかの誰かになれない、という価値観(「主体」というもの、「わたし」というものがある、という価値観)を選んだ反対側に残しておくものとして。残されているものを見る方法として。

もうここにもどこにも、永遠にない過去というもの、思い出せないものと、今の自分がどのように出会えるかを見るために、検証というか目を開けて光を入れ明らかにして書き直していくということ。それはひとつの謝り方だったり、「つぐない」の方法かもしれない。と思う。わたしになぜか残されたものと関係をもっておくための、「つぐない」の。つぐない、という言葉が今自分にとってなんとなくしっくりきそうな感覚の理由はまだわからないけれど、責任、とか、自分、とかいう言葉に近い意味でわたしは使っていると思う。

『この国(近代日本)の芸術:「日本美術史」を脱帝国主義化する』

まだ出来ていない、未来に発行される予定の本があるという。その前の時間に今、いて、各々の言葉で語られ、各々に視聴する時間をもっている。わたしはこちら側でわたしの事情をもって、どう聴いていたのかな、何を聴きたかったのかな、ということを、書きながら思い出している。書いたのは内容とは関係のないことで、別のことをしながら聞いていたら途中ではぐれてしまったのでまた聞かないとと思う。