日記

とみいえひろこ/日記

2022.09.03

そう、一緒にいると、

こっちがそうなんじゃないの、わたしがあなたを呼ぶときに使うその名前は、わたし(たち)がどうしても自分の「もの」にできない障害物としての、それがあったら今のところ困るもの、どうしてもわからないものを指す、こちらの内側のある一部をただしく指す名前なんじゃないの、と思う、どうしても。

響かない、うつろさのようなものを、相手は持っていない。そんな場所にいない。こちらが持っている。そうしてわたしが何かこだわっているのは、自分のなかにあるそれを、「ものにしたい」という欲、興味が何なのか、あると思っているものが何なのかということ。

 

「現実的なもの」については、決して予見できなかったけれどずっとそこにあったもの、とも言い換えられている。後述するように、マルディネによると、「抽象絵画」と呼ばれるもの、いわゆる「アンフォルメル」も、かかる「現実的なもの」を探索しているのであって、マルディネがしばしば言及するブランケンブルクのいう「自明性の喪失」-支えがないこと(Haltlosigkeit)-という事態が、「現実的なもの」としてここに描かれているとも言えるだろう。

 

〈現実的なもの〉とはつねに、われわれが待望していなかったもの

(『眼差し・言葉・空間』アンリ・マルディネ)

の、「現実的なもの」の読み方について書かれたもの。

読んだときにわっと思ったはずだったのに、その部分を抜き出すと難しいだけになってしまった。

 

合田正人『フラグメンテ』(法政大学出版局

 

 

ひとりのときはそう、ふたりのときもそう。三人以上のときの、フィクションのことを、いつもあなた以外のものと話すことになる。