日記

とみいえひろこ/日記

2022.09.09

ひとつ(この期間のことをひとくくりにして。「ひとつ」に関わる時間をとるための格闘についても考えて)なんとか乗り越えて、もう何段階かの返事を待つ時間、休憩している。

何もかも置いて休憩するときにずっと見る。目が奪われてずっと見るだけだからわたしのほうは何も進まず、深まらない。歌詞さえよく知らない。見られているものはほんとうにどんどん変わる。もうこのときは帰ってこない。わたしが目を奪われて見るものは「今」というものなんだと思う。代償という言葉も思い浮かぶ。いくらでも、いろいろなものを注ぎ込める。

 

言葉に意味や役割があって、約束ができたり、相手の状況を自分の観察や経験から想像して心から(たいそうな意味や、本心や真心という感じの意味をもつ「心から」ではなくて、ナチュラルに、言葉で人とうまくやっていくための約束事を自分の経験から実感として理解して納得もした上で、くらいの意味の「心から」)謝ることができる、という発達過程を、わたしはなんとなく今日見て感じ取ることができた気がする。自ずと、こちらがこれから気をつけてみてみようと思うこと、課題、目標が変わる。この、自分のもつ課題や状況が変わるのと、人の行動の変化を感じ取るのも前後する。同時発生的、と思う(わたしが今気づいて、わたしがわかったと思っただけだ、とも思うし思ってきた。ただ、この、自分にぜんぶ押し返される感じそのもの、関係性を、そう名づけると決めたものと付き合っている、ということなのかもと最近は思う)。

この行動の変化(とわたしが思ったこと)がみえたことは、わたしにとってはすごいことだったけれど、本人はたぶん、これを納得も実感もなく、手探りで観察だけで切り抜けてきたと思う。他のことと同じように。

 

言葉に意味や役割があるとわかってしまったあとを生きていて、注ぎ込みたかったものを自分の見えない手にたくさんもっている。でもこのことは、この状況は、この思い方や見方は、「意味や役割をもつ言葉」とは別の意味や役割をもつ言葉でもある、ということをわたしがわたしひとりに表現する手段として今、今を引っ掻くことがすべてだという手を見ている。と、書きながら思った。

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