日記

とみいえひろこ/日記

2021.11.06

どこかまだたくさんの間違いがあるのです。

イ・サンウクの言葉。
これは、わたしは真実だと思う。
そして、同じ運命を負ったものでなければ結局は分かり合えない。裏切りに終わる。というサンウクの思想は、たとえば経験値などによってもうちょっと深まる可能性があると思う。「どこかまだたくさんの間違いがあるのです。」と吐かれた言葉にとって、持ち得る可能性が、あると思う。

 

そして、そのようにしながら、この島がそれ自体の力を育んで、その自由と愛を真に実践し、その運命を選択しつつ生きていくことができるようになる日を、忍耐強く待ち続けます。

イ・サンウクは冷静で辛抱強い観察者だったが、この言葉を吐いたチョ院長はさらに行動する賢さをもった人だった。この言葉は、もう何も持つものがなくなり、裸の状態で吐かれた言葉だった。美しく賢く、まったく、しんじつその通りだと思う。
その日が来ても、来なくても、この聡明さが、真実へのいちばんの近道なんだと、院長の目をすこし借りてここまでことの成り行きを追ってきたものとして、心から思う。
自らの欲望への深い洞察と、自分が持つ立場と可能性すべてをかけて実践する「愛」によって「島」に生きる人の「信」の種を得た院長、でさえも、ここまで自分を追い詰めることによって、「狂」の世界の側に足を踏み入れた。最後の院長は狂っていきここから見えなくなっていく人の風景だと思う。「(わたしたちのための)天国」という名の「(あなたたちの)鉄条網」をつくりあげてしまう、人の風景。

それでも院長は、「非在」の側にいようとするところまでは行ったんだ、と思う。

 

どこかまだたくさんの間違いがあるのです。

 

吐かれた言葉は、サンウクの思想や経験を超えていると思う。

あらゆる表現は選択であり、代弁なんだと思う。表現する側は、生きる側は支配者。選択できず、表現されたものを受け取るしかないほうが被支配者。選択することは、選択しなかったもののもっている可能性を見殺しにすること。表現されたものを受け取るという行為のほうがほんとうはクリエイティブな行為なんだと思う。選択されず殺されなかったものを読み取り生き延びさせる可能性を持つという点において。でも、支配者によって見殺しにされずに生き残った「可能性」に食われたら死ぬ。たいがい食われて死ぬ。そして、やっぱり、食われないように人は自分を追い詰めて支配者になってゆく。支配者と被支配者のあいだに翻訳という行為がさしこまれることで支配関係を揺らすことができ、支配によってすら表現されなかったものが追い詰められた生死のさまを浮かび上がらせる。幽霊のように。翻訳という、自分の言葉でない言葉を借りて言い得ないものを伝えようとする行為自体に、言い得ないものを生き延びさせる力が宿るということを思う。

 

『あなたたちの天国』李清俊 姜信子/訳