日記

とみいえひろこ/日記

2022.12.26

突き放して、

もうすこし、もっと向こうに置いて見たい。手で退ける。手、こんなになってしまった。もっと向こう。

ちゃんと見たいから。見た、見た、見た。くっつきすぎてしまって、あわれに見える、みじめに見える。嘘くさい、そういう、答えが欲しいのじゃない、と思う。下手な関わり方を繰り返すうちにどこかから現れた共犯者、第三者、救ってくれるもの、仮想敵に言う。怒りなら呼び出せるから、ずっと呼び出して言う。

くっつきすぎた状態は、何のためにとった方法だったか、もうそれは必要ないのでやめにしたい。とお願いする。

 

なにもないしづかな一日 水門がひらくのを待つてゐるやうな

 

われのみの橋をもてりきひつそりとたつた九歩でわたりきる橋

 

緑より黄ばみそめたる梔子が陽に匂うなり デュラスはきらひ

 

小林幸子シラクーサ』(ながらみ書房)

 

この作者の歌集、好きになってしまって、いくつか手に入れた。

 

なにもない、なにもないということに意味を見出すことが「浄化」や「回復」を運んでくるとして、やがて結局そうやって自分が助かってしまうそれまでの時間を、意味づけへの奉仕に費やした時間だったということにしたくない。

ひとりでいられるように、名前のある何かに陥らないように、ただただ受け取って消費して浪費した時間だった、誰のための時間でもなかったというにしたい。

書かれていて、受け取ったのは、意味づけを避けながら、簡単に自分をそこに映さないように、他者を視る、という時間の気配だろうか。沈黙の証明としてそれは、そこにいたかもしれない、流れていたかもしれない。でも見えなかったかもしれない、誰からも忘れられこぼれ落ちたものとすれ違ったかもしれない。