日記

とみいえひろこ/日記

2023.01.15

「わからない」ということだけは自分にとって確かな自分の感覚だった。と思っていた。そこから、這うように、たどるように、さがしていく。「わからない」から「確かめたい」がみつかる。

「確かめるため」のいろいろなことをした。わからない私が思いつく限りのいろいろなこと。思いつく範囲のこと、自分のわかる範囲のいろいろなことをして、わかることからはみ出す部分を信用しようと思って「確かめる」をやったはずだった。何度も。「確かめる」行為だったので、「何を?」「どこまで?」がつきまとう。そのわからなさに夢中になる。行っても行っても「わからない」だけになる。私は「どうやって」だった。私は「誰に」だった。

終わって、何もわからなかった。と思っている。終わってしまった。と思った。言いかえる言葉をいくつか持っていた。私がやったあれは「確かめる」としか言いようのないことだったのか? と思い返す。泣き終わったあとに思い返すひとのように。ほかの言葉を知らなかっただけではないのか? やっているうちに「確かめる」の内部が変わったこともあっただろうし、「確かめる」から外れたこともやっていたのでは?

手持ちの言葉で言いかえていくという時間を、「どうやって」「誰に」だった「私」は、「確かめる」とくっつくことによって生んだ。手持ちの言葉で言いかえていくという内部の時間もまた、わからなさであって、私がからだごと乗っ取られていたわからなさとはまた別のわからなさな感触がある。と思う。わからなさは外側にもあった。内側にもあったけれど、肌を通り抜けて外側へ行ったり内側へ来たりする。と少し知った。

一日雨だと、夕方走る人が多いのだと知る。朝走れなかった人も走るから。人が泣くのを見る。離れる、後ずさりする。動かす、動かされる、動かしてしまう。「感情」の言いかえもさがしてみたいと、ふと思う。いいえ、だから、これが、もっと前から考えてきたことだったはずだとも。