日記

とみいえひろこ/日記

2023.01.07

オテッサ・モシュフェグ 岩瀬徳子/訳『アイリーンはもういない』(早川書房

 

アイリーンはもういない。レベッカはここにはいない。アイリーンはレベッカと出会った。レベッカはアイリーンに出会わなかった。レベッカを失ったことによって、レベッカはアイリーンだったものの一部になった。アイリーンの片側にレベッカはいる。出会って失ったことによって、可能性が残された。アイリーンはレベッカに出会ったことによって、出会って失うという概念と出会った。ただし、アイリーンはもういない。

アイリーンの父親はいつまでもいない。アイリーンの母親はいない。えづきのように父母は蘇る。そこには子どもがいなければいけないはずだった。どこにも子どもがいない。大人がいないからだ。

アイリーンはそれでもそこにいた。大人がいないからいられなかったけれど、いないことで、より、そこに縛りつけようとする力が働いた。アイリーンは成長した。下剤と嘔吐で、子どもという時代を確認しようとしつづけた。すべきだという欲望があった。欲望は父母の欲望から生まれた。

欲望は叶えられなかった。アイリーンは叶えられない欲望を旅した。アイリーンはアイリーンを捨て、子ども時代をわからないまま失った。欲望の片側に「失うこと」がいる。「失うこと」という営みによって、アイリーンは生かされた。

アイリーンはもういない。いないから証明しようがないけれど、名のないアイリーンを知っているものはいる。アイリーンはひとりしかいない。

展開だけがある。はじめ、わたしの語りはアイリーンの外側にいた。ラストシーンに語り方が変わる。消えてゆくアイリーンの内側にわたしが入り込んでゆく。あたたかな場所で生まれながらわたしは、アイリーンを消した。アイリーンにまつわるものすべてを消すために、アイリーンごと消した。アイリーンは消した、消された、消えた。加害と被害を抱えて、当事者の立場という椅子を、非当事者の立場という椅子を蹴って。

 

消えてゆくものの内側へ入ったわたしが、アイリーンという名を皮膚として触れつづける外の世界。わたしが見つめる外の世界の景色はすべて、とても暗示的なものになり、意味をもつものになった。

 

町を出るあいだ、光はわたしを悩ましたり弱まったりした。わたしがこの景色全体を目におさめることができず、部分部分を垣間見ることしかできないのをわかっているかのようだった。風がうなりをあげてわたしの顔に噛みつき、このXヴィルを、光と風に翻弄されるXヴィルを覚えていろとささやいた。恋しがることも愛することも憧れることもない地球上のただの場所として、壁と窓でできたほかと変わらない町として覚えていろ、と。わたしはラジオをつけ、クリスマスキャロルの曲をすべて飛ばして、やがてまだ消した。

 北に向かう高速道路で感じたつかの間の安らぎを、また感じられたらいいと思う。わたしの心は空っぽで、通りすぎる森や雪に埋もれた草地への驚嘆に目を見開いていた。

 

わたしは助手席に身を沈め、酔いながら、曇った窓から外を見つめた。古い世界が流れ去り、はるかかなたへ失われ、やがて、わたしのように消えていった。