日記

とみいえひろこ/日記

「男と女」監督/イ・ユンギ

「男と女」、もう少し具体的に。
お金の問題がなくて選択権があるとき、「健常者」が障害を抱える家族とどういう関係性を結ぶことにするのか、どういう方法がそれぞれにとってよいかたちなのか、いろんなありかたが示されていて、心に残りました。
ほんとうはこの監督はそのことを描きたかったのではないか?と思いたい気持ちもある。
重めのたぶん自閉症の息子をもつ母と、BPDを持つのか極端に気性の激しい妻・極端におとなしい娘をもつ父が出会って不倫するなかで、自分の選択を考えていきます。
相手がもつ独特の時間感覚を分からないながら理解しておくことの大事さや、「寄り添う」方法はさまざまあって物理的に一緒に暮らすか離れるかの選択はそのひとつだということや。重要な分かれ道はたくさんあって、誰も正しいと思った。

たとえば、相手に「あなたの選択は障害があることを受け入れていないからだ」という。それは「受け入れ方」が違うということなのだろう。「受け入れていない」と相手に言った側の受け入れ方のほうが、その環境においては安全だったのかもしれない。受け入れ方が違う側は、受け入れてなお、環境に対して周囲への期待値が高すぎたのかもしれない。でも、そこから選択された環境や経験は本人にとって良いことだったかもしれない。実際のところは何がいい選択なのか、そうなってみないと何も分からない。

物理的に一緒に暮らすことにとどまった者は、「本当にはあなたは何も理解していない」と当事者に指摘させたほうだったり、当事者を見ていない時間が多いほうだった。そして、もちろんそれが「本当に何も理解していない」ということではない。あなたの期待通りでない理解の仕方ができる条件を持っているということ、理解の仕方が違うということ。

飲んではいけない水を飲もうとした子、あなたは大きくなったという他者がいて、そうやって大きくなって、ひとり流れていくものをずっと見ていた。流れていったものがかたちを変えて、手によってここに戻ってきたのを見た。そこで内の時間と外の時間が合った。流れていったものがある、流れていったそれは戻ってこないとどこかで知ったし、自分の手で流れを変えられると知った時間だった。

流れていく時間を身体のなかにしまっている者の不安定さと、肌の外を時間が降って積もる、その時間に曝されしまわれている者の安定、と、内側に抱える自分の時間が薄いばかりにそこから生まれる不安と。