日記

とみいえひろこ/日記

2023.05.30

向き合うにしても、向き合わないにしても、すべてのいとなみは向かい合ういとなみ。ということを思いながら過ごした。過ごすうち思った。どこまで、どうやって、受動的になれるだろう。これはずっと。

目の役割。迂回する、閉ざす、戻ろうとする、縋る、寄る、避ける、睨む、恨む。目はさまざまなところへ置かれる。ものを見るたびに、ものをそのものの示す方法で見ようとするたびに、ものを見まいとするたびに、さまざまなところに視座が出来てしまい、目が現れる。現れてしまうというそのいとなみはすべて、向かい合い受け止めざるを得ないということから逃れられないいとなみ。

そうして内側が出来る。内側には、それぞれがさわだってふくらんで、こぼれそうな声が重なっている。自分ではないもの、受け入れられずじまいのすべて。内側と外側を渡る淡々とした作業のうちに、危うく漏れ出そうだった声が止む。目と手の作業。

 

生き延びるということは、他者となんらかの関係をつくることだから、他者を生かすことにもつながる。人は概念を持つから、自分が出会う相手に、自分の存在自体が何らかの「意味」を見出させてしまうし、相手の「価値観」をかたちづくる材料のひとつになる。自分が相手の「意味」になってしまうのを誰も避けられない。
「生き延びる」ことがいいことか悪いことかは分からないけれど、「意味」という概念を利用してでも生き延びる、ということは、動物的な意味でも、人間的な意味においても、自分の「責任」ではあるのかな、と思う。そして、「責任」を放棄するという一滴の「自由」は残されている、と気づく。理屈上。でもそれはたぶん、ほんとうに自由に手にするにはそうとう難しい自由で、「夢」とか「目標」とか「嘘」とか「生きがい」とか「あこがれ」とか、絶対必要だけど絶対一滴しか味わえない「毒」とか「真実」とか、そういう意味で見ることがゆるされているものだと思う。

 

 

澄田広枝『ゆふさり』(青磁社)、石川清子『マグレブ/フランス 周縁からの文学 植民地・女性・移民』(水声社)、ジャン・マリ ロラン フレデリック・スモワ 稲松三千野/訳『誰か死ぬのを手伝って 闘う障害者はなぜ安楽死を選んだのか』(原書房)、など。押見修造『血の轍』16巻もさっき読んだ。同じこと考えていた!とか都合よく思う。チョン・ジュリ/監督・脚本「私の少女」。