日記

とみいえひろこ/日記

2023.07.07

何年も、10年近く、できるはずなのに手順が頭のなかで分からず、手やからだがそのように動かずできなかったことが、きのうきっかけがあって、今朝、少しできた。苦しかったなー、と息が通ってはじめて思う。毎日のことで、これから少しずつ、いきつもどりつしながらできるようになっていくかもしれない。代わりに何か消えて、何かが減る。

こういうのがいくつか、いくつもある。できないそのできなさも同じ、できるきっかけにもパターンがある。自分が受け入れる容量が、ぎりぎりあるタイミングで、ぐっと踏み込まれるのをゆるす。できるかもしれないふうに自分を持っていきながら、ちょっと無理してやってみる、これが続くように、できるだけいい加減に、短いあいだだけ。

 

感覚は、ここの、今のここにつながるための傷口のようなもの。だから、それぞれの感覚の癖や特徴や、それを本人がどうとらえてどう使っているか、封印しているか、どう感じているかを観察することで、本人がここにどうつながっておきたいか、どこまでつながっておきたいか、つながりたくないか、が自ずと見えてくるはず。当たり前のことだけどそういうことをあらためて思った。

 

カサヴェテスの映画、配信で、はじめて観た。ざらざら、がさがさ、荒っぽくて、気づいたら音がない場面など。はじめは音楽にわっと胸ぐらをつかまれるようだったのに。観終わって、言葉なく、わーっと嵐のなかで心が乱れながら定まるようだった。

 

もうひとつ、不思議に説明しすぎの映画。ぺったりとして、なぜあんなに全員が意味を話していたんだろう。疲れたときの役のそのひとの眉の感じがすごく印象に残っている。意味を多くの人同士でわかりあっている言葉はとくに、それぞれの無数の思惑がぶつかり合い引っ張り合いされるなかで、擦り切れていて、ほとんど虚無なんだな、と、確認し合うような、なりゆき、終わり方だった。