日記

とみいえひろこ/日記

2023.07.05

最近は異様に肩、腰、首が痛いので、毎日ヨガをやっている。やるべきことがほんとになかなか進まず。

スーザン・ソンタグの日記、川田絢音の本、など。わたしは今や先が見えない不安が嫌でモデルが欲しいのだろう。ずっと。

婦人科。婦人科の待合室で聞こえてくる会話もまたいつもあけっぴろげで切ない。そして、それぞれがそれぞれに背負ってきてそうなった、その困り感のかたちがぜんぜん違う、違いながら「型」があって、語るうちにどれも一様のところに回収されていくみたいだ、と思う。語るうちにそれぞれが自分にあった型をうまく見つけて、そこへうまくのっていく、みたいだ。

聞く側の聞き方も、素人の私にはぜんぶ一緒に聞こえる。文句ではなくて、様式があるんだということ、劇空間なんだということ、誰もそこからはみ出してはいけない、はみ出したら終わってしまう、かもしれない、ということが気になって気になって。どこもそうで、相手の空間に入っていって語るとき、その場ののぞむものに自分が合わせていってそのように喋らされるような、被害的な感覚をふわっと持ってしまうタイミングがあって、嫌だと思う。そういう感覚を持った自分にとらわれたり、そこでストップしてしまうのが、嫌だと思う。そのように喋りたいと私がのぞんでいるという建前で、そうなっていかねばその場所に自分が回収されずにこぼれてしまい、そればかりか困りものになると分かるから、あるカードでなんとか凌ぐために分かっていることを語ることになっていくような。お決まりのキーワードを口にし、それにつづく言葉を雰囲気にまかせて言えばいいことになっている、それに応えるだけの作業をしないといけない気になっているような。そして一様の答えをもらう、答えを出す、という儀式を潜り抜けなければいけないような、それは誰のためで何のためで、何をやっているんだろうとはたと立ち止まり、ほんとは私はぜんぜんこんなこと思ってない、と黙りたくなるような感覚。自分の、嫌だ、という感覚と、それは同時に相手をとてもばかにしていることで、自分もここにとどまり未熟なままでいることを選ぶことだから、でも、もう疲れてそっちに渡りたくない、という感覚と。

単純に、好みの問題で、こういう様式じゃないものが私は好き、というだけなのかなとも思う。

もっと幼いときはずっとそれが全部気持ち悪くて嫌だったのだろう。少しのれるようになって嬉しいときもあったはず。今は、でも、今も同じような流れを繰り返している。