日記

とみいえひろこ/日記

澄田広枝『ゆふさり』

明るさのなかへひとつをおいてきた朽ちるまで香りつづける檸檬

 

遠景として決壊を見るゆふべあたたかきもの口にはこびて

 

秋の陽がこんなに長くとどくから洞の深さに気づいてしまふ

 

「ひとはどう思ふだらうか」空蟬を土にかへして ひととはだれだ

 

耳朶にくらい言葉をふきかけてあなたを日暮れに連れてゆくんだ

 

 

「ゆふさり」ということばは、いちばん激しく、ほんの一瞬しかない、ほんの一瞬もないあの時間ぜんたいのこと。「あの」といっても、時間ぜんたいといっても何か、掴みようがないから仮にそう名付けるしかなかった、呼ぶたびにまったく違う何かのことを指す。「ゆふさり」ということばが今は、何度か読んだり何度か思うことで自分の身体のなかにいくらか入っている感じがする。透き通って、ゆふさりが自分のものではないのに自分の内へ入っているような、今の時点では、私はそう思う。

 

これは死の歌、これは病いの歌、これは家族の歌、など、など、触れたものを自分のものにするために、具体的な何かと歌を結びつけて人はこちらへ引っぱってこようとするものだと思う。歌やことばに触れたとき、そして、もう少し何か、自分のなかに思い出しそうなことがあるとき、自分のもとへ戻したくなる、呼び寄せたくなる。自分のものにしたくなる。具体的な手がかりがあると、自分のものになりやすい。何度もひらき、何度も閉じて、そうして読むうちに具体的な手がかりがいらなくなって、そのうち歌も忘れて、残った思いのようなものが自分のものになる。

 

私にとっての『ゆふさり』は、陽のうつり変わる姿がいやに心に残る、大きく影を残して引っかかる歌集だった。陽は怖い、大きい、乱暴、狡猾、どこからでもどんな姿になってでもこちらを見つけて刺してくる。逃げられない。陽とのたたかいと、たたかいの終わり方までが歌集のなかで描かれているように思えて、待ったり拒否したり悔いたり恨んだり、苦しんだり、たたかいに伴うそれらの感情の浮かび上がるのを手がかりに読んでいた。

読んで、戻って、陽のさまざまな姿を見るうち、そんな在り方やそんなたたかい方もあるのかと知ったりした。

最後はたいてい、受け容れてゆるすことになる。ゆるされることでゆるすことになる。納得いかなくても終えようがないものを終えるにはそうなる。何でもそうなのかもしれない。けれど、私の思い込んでいたたたかい方や終わり方とはちょっと違うものなのかと思う、やっぱりぜんぜん違うのだと思う。最後はもっとさびしい、もっと分からない、遠いものなんじゃないか。静かで重たい、打撃ではなく、ゆらぎよりはしたたかでつよい、持続する鈍痛みたいな感触で、そういう予感を時間をかけて受け取っている。

陽の移り変わる姿と、陽のそばにいることによって手に持ってしまったたたかい方、逸らし方、離れ方、しまい方、見届け方。見る私がいなければ陽はこんな姿を見せなかった。見る私があたたかく大きな影自体であり、もっと大きな影に覆われていることに気づいていく、長い時間。その前の時間。その後の時間。

 

 

澄田広枝『ゆふさり』(青磁社)