日記

とみいえひろこ/日記

澄田広枝『ゆふさり』

少しだけ、走り書き。

読み通してどうしてか陽の描写が印象に残っている。陽の見つめ方、付き合い方、ついにこんなさまざまなバリエーションができていくんだと思った気がする。侵食してくる、覆い被さってくる、父なるものとしてあらかじめ自らの身体に入っていながら、さらに外側からもかたちを自由に変えながら足元にさらにのびてくる陽。恐ろしく厳しい、有無を言わせない、と思って見ていれば、そんな姿でない陽の姿がふと見えるときがある。陽の受け入れ方、付き合い方、眺め方、距離の取り方、包まれ方、逃れ方。あらかじめ身体に組み込まれているそれ、自分をかたちづくっているもの、分けようのない自分との和解のプロセスのようなものが何かと並行しながら足元で描かれている。

と、『ゆふさり』やほかのものを読みながら思ったはずで、それはそのときの自分の考えたかったことでもあるはずだった。ただ、歌集は読んでも読んでも、読んでも読んでもというほど読む時間というのはいつもとれないけれど、とくに歌集はいつでもすぐどこからどこまででも読めるから区切りがつくれず、なんで/ほんとに、そう思ったのか読み返すと、終わりや決め所もなくなりさまようばかり。自分が思って、もう少し思いたかったかもしれないことが、本を閉じた後に別のことを通して広がりはみ出していくばかり。