紙を一緒に見る時間を、夜にとった。すっと手にとって、声を出して読み上げたので、すこしびっくりした。自分のものだから、こうすることがふさわしい。そう言っているような時間だった。こういうやり方でそれをやる、スマートにダイレクトにそれをやる。
数年前に書かれていたことを規則正しい声で読み終え、このときはこうだった、どうだった? という話を尋ねたり、聞く。数年前よりも、表されてこちらに伝わってくるものの密度も量も、質も、分かりやすさも全然違う。そのことがすごいと思った一方で、ただそれだけのことだとも思う。そんなことは、まったく本質じゃない。
現在のものも読み上げる。裏返して、途中で終える。もったいないから、と思わずわたしの手が出て、紙を引き取ってわたしの声で読む。わたしは、わたしの読み上げた箇所のことがわりと気になっていたから、せっかくなら自分の声で読んで身体に入れて欲しい気持ちをこの一瞬でもってしまった。から、代わりに引き取った。ここに書いてあったことに気づかなかったと言う。
わたしが自覚した自分の考えの前に、様々な、ひとつひとつの、動きや展開がある。何が起こっているのか見る、ということと、出来る限りことばどおりに受け取ろうとする、ということを、最近は気にしている。