ひとりひとりが遠く離れて、まったくべつの世界に棲み、べつのものを見ている。内面といわれるところ。あなたとわたしはぜんぜん違う。だんだん、少しずつ、そのことを実感してふしぎな気持ちになるときがある。表現の役割のひとつはやはりだからよく言われるようにつながることなんだと納得する。つながることの何がいいのだったか、わたしはよく忘れる。
外に表れること、それは表現でも、症状でも、多くの場合似通っているように見えたり、似ているところ、知っていると感じるところを見出していく癖がわたしたちにはあって、表現されたものや症状としてあらわれたものは手さぐりを誘発する。手さぐりを経験というのかもしれない。表れたもの、表されたものを通してつながるときと、潜在してつながらないとき、そのあいだを動く、不安定に。
鳥のゐぬ鳥籠のゆたけさとしてわがあるはわがほかは知らざる
渡辺松男『蝶』(ながらみ書房)
サガンの歌があった。死んだサガンがぼくひとりのサガンになる。
起らないなにひとつ起るはずもなき風邪ぎみのぼくのなかのサガンの死
サガン死にわたしのなにか消えてゆく朝にてヨーグルト食べわすれたり