その時の気分にすぎず 流れ来しかなぶんを溝川より掬ひて放つ
バルコニーの手摺に鳩がうづくまりをり 夕闇がせまりをり
追はれては覚め、追はれては覚め、を繰り返す 寝るまへにコーヒーを飲みしに
なにごとも、自分が泳いでいるその箱、自分が因っているその様式が何なのか、どのようなのか、を表そうとしてゆく、せざるを得なくなってゆき、そうすることで乗り越えてゆこうとする道すじを辿ることになるのかもしれない。と思うことがあるし、違うかもしれないとも思う。
たとえば、短歌の形式と思われるもののなかへ投げ入れた言葉=世界、が、そのなかでどのように動くか、ざわめくか、切り取られて孤独になるか、なってしまうか。言葉がどういうことを起こしてしまうか。
という事実を覗くための穴をみつけようとする指、呼吸を感じようとそばだてる耳、動いてしまいざわめいてしまうものと出遭うかもしれない私。が、いつも、こことそこの間で蠢いているはずなのでは、と思う。世界を見るとき人は、指や耳や私を、なにか徴しとして、代わりになるものとして、世界のなかへ落とすのでは、と思う。
顔を見てしまったばかりに応じなければならないと感じてしまう感覚や、言葉とつながっておかなくてはここで生きていけないのだという感覚。の成り立ちや動き。生まれてしまい見てしまいつながっておかなくてはいけないことになってしまい、この状況でひとりで受け取らざるをえないかもしれない私、の、動き方や待ち方、おびえ方、逃げられなさ。歌の向こう側にそれらがいて震えたり揺れたりしている。
その感じ=世界と私ひとりの独特で唯一の特別な出会い方、が、そこに伴う足掻きのようなものや恍惚のようなものとあわせて細やかに綿密に記されている、記憶されている。
この作者の歌集を読むとき、そんなことをわたしは感じて、そこを頼りにしようとして、読んでいるのかもしれない。と、書きながら思った。
二週間留守にするのであなたから贈られた黄薔薇をまるごと捨てた
老母の顔と髪と足を今朝も洗ふ 生きゐるかぎりすぐに汚れて
雑踏で誰かの耳から外れて落ちたイヤホンから掠れ声のシャンソンが洩れ
王紅花『星か雲か』(ながらみ書房)