日記

とみいえひろこ/日記

2023.12.24

冬、静かな冬はとくに、悲惨なもの、直截的なものを読みたい、見たい、と思うみたいだ。

簡単で単純で、分かる、分かっている、と思ってしまうことであるほど、短ければ短いほど、それと向き合おうとすることが、より、途方もないことであるはずだと思う。受け取る、受け止める、受容するという作業はとても高度なことで、私の日々はほとんどが受け取ってそのときの気分で消費してしまうことばかりで、何の意味もなく、虚しいことをずっとやっていて、何に対してか恥ずかしく情けないと思う。何かに対して、という感じがするということは、その何かに対する何かの役割を私が負っていると信じているということだと思う。役割になる、役割と思うものを真似して演じる。

配信映画を流しっぱなしにする。こういう時期だからか、とくに思うのは、いつも誰もがずっとその場その時に応じた役割を演じている、現実というのはほんとうにそれだけのことでできているみたいだ、ということ。映画や芝居というのは、この事実を、この約束を、画面という枠で区切ることだったり、舞台に置くという営みなのかなと思う。じゃあその枠内で演じる者は、その人がそのようにそこにいる、ということに取り組む人であり、代わりになりきれず落っこち続けるという経験を受け止める役割、受け止めようとする役割を生きる人なのか。

 

ひとつ明らかになって、ひとつ止まって、ということは進んだということだと、受け止めている。数ヶ月前より、いろんな面で、よくなったと思う。わたしは。けれど、ぜんぜん違うとも。何も変わっていないと、確かに言っていた。