日記

とみいえひろこ/日記

野田かおり『風を待つ日の』

誰を忘れてしまふのだらう足元へさざ波寄せてまた去りゆけば

 

誰を忘れてしまうか、分からない。分からないけれど、ぜったいにこの先、私が誰かを忘れてしまうことだけは知っている。私が必ずあなたを忘れてしまうことには、変わりない。今まで私が多くのものを忘れてしまってきたと知っているからで、同じことを繰り返すことで生き延びること、生き逃れることを知っているからだ。忘れる、その引き換えにここにいる。もしかしたら忘れてきたものたちの代わりに、ここにいる(ということにしていくこともできる。と思ってしまう傲慢さをもつ私に出会い続けることで生きてしまう)。

誰、を忘れて、忘れてしまった後にいて、〈後〉を過ごすわたしのなかで、忘れた誰かがほんとに名のない誰かになっていく。わたしは誰かを失い、誰かはわたしを失っていく。でも、忘れてしまう〈前〉の時間のなかで、果たしてわたしはその誰かが誰かだと知っていたんだろうか、あなたを知っていたんだろうか。知っていることにしていただけで、知っていることにしなければ成り立たなかっただけなんじゃないか。

 

今触れている足元のさざ波の感じだけは確かで、ほかはあんまり、何も分からない。ここからここまで、私の範囲。「ここ」の境界線がずっと揺れる。

 

うしろすがたに葉陰は揺れてもうそこに戻ることはない、夕闇の庭

 

写し絵ではなくひとすぢの線 春雨をあなたとずつと見てゐたい

 

時が戻ることもなく、何かが戻ることが決してないということも知っている。目に見える何かが、かたちを持たない、意味のない線だということも知っている。

「ずっと」と「いつか」の間、「死者」と「ここ」の間。

この歌集を読むタイミングによって、こんなに食べものの歌が多い、と感じたり、こんなに学校の歌が多い、と感じたり、「ふにゆい」「さんささんさら」のオノマトペに目を見開いたり。ここ何日かは、こんなに揺れる、揺れている歌が多い、と思って読んだ。見開いて見た後のわたしの記憶のなかで、不如意が思われ、サンサーラが思われ、揺れる歌が目に入ってくる。

 

見つめても逸らせないから冬草が呼ぶのはここにゐないひとのこゑ

 

ゆふぐれは行方不明の時間なり秋草ゆれる木犀揺れる

 

揺れる揺れない揺らす揺らさず 夢を見て夏の終はりの雨が近づく

 

 

野田かおり『風を待つ日の』(青磁社)