日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.13

Aについて、時間内で、今の力でできるかぎりのところまで。終えて、 Bについて、名前と道のりがぼんやり見えて唐突に嫌になった。Aをとりあえず終えて疲れたからだと思う。もうほんとうに嫌だ。そして、嫌、で、それをやめてもいいし続けてもいい、というところを続けてみようと思っている。朝。

今までのいろいろな続けかたと同じだけれど、少し、大きく、違う。選ばなかった、選べなかった、知らなかった、届かなかった、ところのものを、そちらの名前と道のりに「どうせ」包摂されつつ私は私の必要があって知りたいので続けるのを選ぶ、苦しまぎれに、ということ。

包摂されつつ、どうすればいいか、どうふるまえばそのようになれるか分かっている。同時に、ふっとすくわれるものがある、奪わせて楽になるもの、そういうことになることで楽になるものが。その答えは私がずっと欲しがっていたものでありながら、そっちの見方で見たかったのでは全然ない。私にとってこれらが何かということや、これらにとってこれらが何かということを、経験したかったしわかってみたい、見てみたい、全然違う仕方で。こちらの欲のほうがはるかに切実だ、と思う。これらの答えはそこにない。

私はいつも、何もそこまでそちらの道のりやカルチャーで説明しようとしなくてもいいと分かっておかなくてはいけないと思う。そちらの健やかさや正しさや意義とはまた別のものが、別の仕方で、「ある」とまではいえず、ただ、たしかに私の思うところにはたぶんあり、これらをそんなに簡単には扱えないと分かっておかなくてはいけない。ましてや取り出して分からせるなどできないということを分かっておかなくてはいけない。何かを間違えつづけることで生まれるのが、失礼と失望くらいしかないということはきっとたくさんある。

じゃあ、私がどう思ってどうやって包摂されているか、いくか、ということと、どこが、どこに、どう逸れていたか、いたかったか、いるか…どんなふうに依っているんだろう。

 

ほんとうにこれでいいのか、これでよかったのか、と検討するとき、おのずと前提にあるもの。何にとって、誰にとって、どのくらいの時間の幅で、どういう理念があって。この前提を、私はどうやってつくってきたのだったか、ほんとうにこれでよかったのか、今朝、あらためて、いつもと同じような後悔を辿り直しつつ。

 

キム・ソヨン 姜信子『数学者の朝』、トーマス・S・マラニー クリストファー・レア 安原和見/訳『リサーチのはじめかた 「きみの問い」を見つけ、育て、伝える方法』などなど。