日記

とみいえひろこ/日記

野田かおり『風を待つ日の』

歌集の構成として、「季節」というルールのなかをひとめぐりして、春から春へかえってくるつくりが意識されている。と話されていた。

なら、かえってきた春、とりあえずたどりついたもうひとつの春は、決められたルール、与えられた枠組みを、少し超えたところに生まれているはずと思う。はず、と期待して読む。超えているところ、抜け出ているところ、逸れているところを読みたい。映画のように、すべてのお話と同じように、読んで自分のなかに取り込みたくなる。

行って帰ってきたとき、そこは行く前と同じ場所で、冒険者は見た目には冒険者のままだけれど、冒険者の内部はもとの自分を失い喪失を知る者になっているし、別の者として、まったく新しい自分や世界を眺めている。

そう思ってあらためて読むと、かえってきたほうの春の連作の歌に流れている、〈深く知りながらまったく知らないたったひとりの誰か〉だけに宛てて書かれたような感覚にあらためてつよく惹かれ、明るく眩しく、散らばった光と影を目に入れるような感覚になる。

 

まだそこにゐたかつたのだらう歩いても歩いても遠い春の灯台

 

写し絵ではなくひとすじの線 春雨をあなたとずつと見てゐたい

 

歌集のなかに散りばめられたオノマトペについて。意味のある言葉を自らの内部からひっぱってくるため、呼ぶための紐として、すこし吃るような思いで使われているという感じがしてきた。大人でも子どもでもなくなりたい、ちょっと意味をフラットにしたい、人を離れたがる、そういう使われ方。