日記

とみいえひろこ/日記

2024.01.17

私は自分では何も考えられないし話すこともできない被害者として扱われました。警察も地方検事も被害者アドボケーターも、明らかに私のことを典型的なバタードウーマンとして見ていたし、そう理解されることで、私の行いも発言もすべて色眼鏡で見られていることは明らかでした。……私がいくら自分の求めているものや家族が必要としているものについて訴えても、誰も聞いてくれませんでした。

 

サラの述べた言葉。

小西真理子『歪な愛の倫理 〈第三者〉は暴力関係にどう応じるべきか』

 

サラの言葉はこの本を通して聞き止められ、受け取られたほうの言葉。

 

そう、当人、と名指すことにして、そのひとのことやそのひとが思うことなど、ほかの誰にもわからない。近かろうが、遠かろうが、まったく、わからないはず。わからないべきであるはず。そのうえで、代理的な行為、翻訳的な行為、何かしら、生きるためにつながること=呼吸すること、行き来することが必要になり、何かしら、当人が独特にみつけてつくっていく表現方法、様式が、生きさせようと要求する側と、もしかしたら当人の手助けになる。当人が何かをみつけるまでの時間に(と、はっきり、「当人」とそれ以外、と区切るものもほんとはないのだけど。「までの」時間と区切るものも)、代理的な、翻訳的な、ときに蝶番的な何かの役を受け取り担うものがみつけてつくっていくべき/いきたい表現方法、様式、呼吸の仕方もまた、独特のものになっていくはず。奪いながら、食いながら、それは独特のものになっていく。そのものがみつけるそれは、みずからをさまざまな可能性に向かってひらきつつ、受け取り受け容れる場所として機能することをうちがわに求め続ける。入り混じり耕され宥め逃す…さまざまな混沌が見られ認められ見逃されつつ、そこでだけはゆるされる場所、生きようと思いはじめるものを逃す隙のある場所。響く、とか、鳴る、とか、渡る、とか、そういう何かを目指す場所。そういう、どこか、誰か、を、みずからの内側のしかも未知の、あるのかないのかわからない場所に求める。それはものすごい欲求で、だから、ものすごくさまざまなことを掻き回し、傷つける。掻き回し傷つけたものとも混ざりなおす。と思う。

場所になった場所は、当人にもならないし、外側にいる当人以外のものにもならない。何にもならない、ということをみずからのアイデンティティとして握りしめる。握りしめる、という反応を受け止め感じつづけるものとしての私。何にも、誰にも、ほんとうの名を呼ばせない。

 

そうして、ほかの何にもならないまま聞き止めることができなかったり出会わなかったりして突っ立ったままいるもの、という点で、今、取り残されている、居残ってしまっている別の場所の知らない誰かと私は独特の出会い方を繰り返しつづけているし、通じていたり混じっていたり理解し合っていたりする。と思えてくる。

 

さらにそうして、思えてくるこの感じを追っていくとたぶん、「希望」と呼ばれるものに似ていくのだとも思う。この呼ばれ方、呼び方を認めたり受け容れるのは今のわたしには何か難しく、息苦しくむせる感じで拒否したい。けれど、これがほかの何か誰かのものではなく、わたしのためのもので、わたしが持つべきものだろうということは納得がいく。