富岡多恵子『遠い空』。なんだか、たまらなかった。
男が中古の自転車を押しのけてすぐそばへきた時、言葉を聴くことも発することもできぬひとなのを朝乃さんは知った。
わたしは知っていることをする。わたしが教えられたことを知っていて、それをする。すぐそばにいるものなら、知ることができる、可能性が出てくる。知らないものをわたしは永遠に知らない。
物語という鏡のようなものがあれば、その虚構を通して、知るわたしは知らないわたしになる。他者になる、よそ者になる、知らない者になる。という。よそ者の目でこちらを見返し見つめ直すことができる、という。
朝乃さんは、まるで自分がソヨさんを殺したように思えた。そして、殺人犯のように、その殺意が説明できぬ孤独を感じた。わかられてたまるか、ともその時思っていた。ソヨさんを殺したのが、いったいどういうことか、だれがわかるものか、と朝乃さんは思ったが、その時自分があの男になっているのは気がつかなかった。
朝乃さんはすぐそばにきた男を知ったから、その男になった。その男になって怒り、悲しんだ。男が、「すぐそばへ」いって出会ったソヨさんを知っただろうことも、どこかの時点で知った。知ったから、朝乃さんはソヨさんにもなった。ソヨさんの受けた屈辱も知った。知っていたから知った。男とソヨさんを胸のうちに生かし、ひとりひとりの怒りを怒り悲しみを悲しむことで、「たったひとり」に何度かなった。
なぜ、コトバでいわなくてはわからないのか、人間が人間の前に立って、人間全体で頼んでいる、それを嘲ってことわったソヨさんは殺されて当然だ、と朝乃さんは思った。