日記

とみいえひろこ/日記

2022.03.30

つづき。こういう答えになる、そうすじみちを見つけ進んでいく歌の前に、答えは決められていて、仕方なくて、それはそういうことで、どう受け止めるかということを延々とやっていた歌がずっとあった。いつか聴ける時間ができる日がくればいいけど、と思う。そういうのではないのかな、時間というのは、そういうのはもうないのだろうな、と思いながら、いつかぽかんと時間がきて聴くようになるかもしれない。ほんとはもっと時間をとりたかった。そういうものをたくさん引き連れている。

2022.03.29

ラジコで流れてきて、なんだっけ誰だっけと思いながら聴き入ってしまい、泣きそうになった曲、から、今日は夜は動画でライブを観たりした。だらだらになってしまい、やることが明日あさってにのびていく。

好きな声を聞くと耳のうしろがばーっとひらいて掻き回される感じがする。

エモーショナルなところ、ではなく、肩を落として、呼吸を低くして、よけいなものを落として、ひとつのことをそのときに正しく考えたらこういう答えになる、ひとつ、こういう答えがある、とすじみちを見つけ進んでいく理知的なところが好き、好きなアーティストたちの曲を聴いて得る感覚は、深い長い、ずいぶんあとになって内側から支えてくれる落ち着き。根がどこかに張っていて、自分の落ち着きどころが今どこかにはあると信じられないときは踊れない。

明日付けで職場を卒業するラジオパーソナリティへ向けて、選曲された曲だったそう。

Monica / before you walk out of my life

2022.03.28

これは、それは、もとは私のだ、とこちらは思っていて、相手もそれは私のだ、と思っている。私のだからやってきた。それを渡している、私の責任で。それで互いにすり減って、今いる位置を見直そうと思ったときには何も噛み合うところがなく、それぞれがすこしでも楽なところに身体をねじこんで生き延びようとし、バラバラに動くようになる。目的や意味があると感じていたものは崩壊して、すり減っていくものは持ち主を失い時間のなかに抱きとめられていく。身体は残り、私は空っぽになり、透きとおった目は時間のなかを覗き込む。そこにはすり減って消えてしまったもの、もとは間違いなく私のだったもの、目的や意味が違っていたためになにか得体の知れない名付けようのない、ただの間違ったものであったものも混じっている。

2022.03.26

拓郎には、比喩というものを長い間「比喩」のままに受け入れておく、そのような知性の回路がなかった。「あの人は、根本のところで女と同種」と思い込んでしまうことが、拓郎の理解だった。それが勝哉に、時々「自分はグロテスクな生き物なのかもしれない」という理解を与えてしまう。

橋本治「暁闇」『夜』(集英社

2022.03.25

「けれども前にもあなたに云ったと思いますが、私の問題には二つの見方があり、一つは境遇はいかにして私に罪を犯させたか、ということであり、もう一つは、私は境遇においていかにつとめたか、ということです。この後者から責任の問題が出てくるわけです」

鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』(集英社新書

 

障害学とは、「障害」とよばれる社会的・個別的現実や現象、その現実や現象が生じるさまざまな困難や問題から目をそらさない学問です。

松井 彰彦 川島 聡 長瀬 修 編著『障害学を問い直す』(東洋経済新報社

 

読むことは自分を読むこと、なら、今自分が欲しい考え方はこういうことなんだなと思う。

コテンラジオでウクライナとロシアの回が録られていた。作業しながらだから複雑な話がぜんぜん頭に入ってこず、何回も流している。流すうちにうっすら入ってくる。人とコミュニケーションをとるということ、否応なく発生するそれをどう受容するかということ、それらはどういうことなのか考えないといけない(と僕は思った)というような感想を最後に言われていたと思う。ほかにも、それが起こっている場所から距離がある自分、という位置をわかること。など。

遠いということは時間がかかることに手を出せるということ。場所と時間、そのどこに位置をとっているかという点が個人で、起こっていることはすべてわたしに起こっていること、という理解のしかたをしてみたいと思う。ここにいて自分が出来ていること、持っていること、見えていることで、自覚が出来ていないことに目を向ける向け方をさぐることは、自分にとって今大事なのではないかなと思った。場所と時間に応じた適切なこと、というのをいつもさがしていると思う。どこに位置をとるかというのはほぼ選べないものかもしれないけれど、選べる部分はわたしには多くある。

 

たくさん手をふり、お辞儀をして、あっけなくたくさんのお別れ。人と会いすぎてもう限界。4月までもたせるつもりだったけど、細かくこもる時間をとるほうが長持ちする。

 

夕焼けが美しいことは知っている。

橋本治『夜』(集英社

橋本治の文章、とってもきれいだ、なぜこんなきれいなんだと驚いてしまうことがある。これを書くに至った彼の本のうちのひとつを読んだと思う。このことを考えて追いつめたあとにこれを書いたのかと思う。

手に入れた美顔器、ついに出会えた感じのする美顔器だった。

2022.03.20

ひとくぎり。本人は独特のきわどい道を選び、それは全部肯定され、経験と優しさと知性によって絶妙に連携されまもられ、とても柔軟に、全部の道が歩きやすいようにほんとうに細やかに整えられ耕され、きちんと楽しいかたちができあがった。自分が尊重され託されたという経験や、何かしらの思い出が出来たと思う。

ひとりひとりの方にほんとうに感謝と尊敬しかなく、同時に、この空気感、考えに考えた末に大人数でひとつの経験をしようというときにどうしてもこういうかたちになってしまうこと、参加しないといけないこの息苦しさが、わたしはけっこうきつかった。自分ひとりだったら今すぐ逃げ出したいと思っていた。

これをわたしも形式上通ってきたのだ。いったいどうやって自分はこれをやってきたのだろう? いちばん早いと感じた方法で、ひたすらものごとを見ないように、自分を消すようにしてなんとかこなしてきたのだろう。

自分だけが自分の苦しさをもつこと、それはそうで、苦しいと感じることには特に意味も理由もない。ただ、あてられてしまうし、考え込んでしまうし、しばらく動けなくなる、こういうことが重なるとどんどん怖くなるし卑屈になる。なりがち。これからもこういうことはたくさん続く。時には同時にいくつも重なる。苦しいことにへんにこだわらないこと、こだわるところを間違えないこと、重ね方、のがれ方、ここまでなら参加できるというところを知っていくためにも、できるのならできるところまでやってみることを、ぎりぎりのところを見極めようとしつつ、続けるのを見るのだろう。

おはよう、おやすみ、いってらっしゃい。こういう決まり文句を自分が口にするということを想像することすら、このひとは恥ずかしくて情けなくてたまらないのかもしれないなと思う。これにも特に意味も理由もなくて、これがこのひとの美学でありプライドなんだと思う。これでなんとか自分を保っているのかもしれない。そういう感覚はたしかに当然だと思う。そういう感覚のほうが当然だと思う。という見方も、どちらもある。

2022.03.17

キム・サンウク キム・ユンジュ/イラスト 岡崎暢子/訳『K-POP時代を航海するコンサート演出記』(小学館

 

「もし二十歳前後のメンバーたちが、芸能人ではなく平凡な青年だったなら、今頃どんな青春の花様年華を過ごしているだろうか?」という仮定から出発した。

 

花様年華が過ぎた後なんだ、わたしが見ているのは。そうなんだ。いちばんの輝きを過ぎて、ひとりひとりがどのようにして最後まで自分らしく着陸していくのか、老いて終えていくのかという刻を見ている。どのように見てもいい、どんな時間に見てもいい、都合のいい時間に。どこをどう見てもいい。何も通じないかもしれないものにそうぜんぶ託すことに決めた手の影を見ている。