日記

とみいえひろこ/日記

藤本和子『ブルースだってただの唄―黒人女性のマニフェスト』

南部の架空の町、クレイボーンには塩水をたたえた沼がある。傷を負った犬などがやってきて、この町で自らを癒すという。

 

自分の子が赤ちゃんのときに、明日の水道管の工事のことを考えながら、ほかのことをしながら、寒い時期に図書館で借りた『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』(藤本和子岩波現代文庫)を読んでいたのだった。その頃わたしは自分ばかりがしんどいと思っていたと思うし、今もある部分できっとそう思っている。

最近になって、同じ作者の別の聞書の本を読んで心に残ったのはこの箇所と、作者が「わたしはずっと考えてきた。」と書いていたところ。

「生きのびる、というとき、生きのびるということばのなかにすでに、人間としての威厳を失わずに、という意味がふくまれているということ」。自分たちが受ける屈辱の毒を、重層的な意味を持ち・持たせつづけることでつないできた魂の塩で癒しつづけること。

自分のうちに共同体の歴史を棲まわせ、苦しみと切り結んで自他を持続させる(しかない)なかで自分の呼吸をするために、身を捩りずらしてゆく、ずれてゆく。その運動が自分のなかに抱えている再生の種を育て、生きのびることができるということ。思ってもいなかった力で、異なものの力で。

まえがきで書かれていたこのことは、最後の聞き書きの章でひとりの女性が語っていたこと、その具体的な内容、考えと同じ内容だった。飛び込んでいって、耳を傾け、感じとり、自分の場所に戻って、自分がずっと考えていたことを言葉にしたら、同じ内容になったのだろう。

そういうふうにして、異なるものの言葉で、つまり「他者の固有性と異質性」のなかに、「わたしたちを撃ち、刺し貫くものを見ること。そこから力をくみとる」ということが書かれていた。

この言葉を聞いた、と書く。言葉が再生の種で、何重にもくるまれたそれを何重にもくるむことで自分に出来るだけ近づけて言い変え、言い直す。という、そのこと自体が書かれないといけなかったから、この言葉を聞いた、と書かれている。

同じ言葉が何度も、ひとりの人間の身体から漏れる。ずれて噛み合ないところに隙間ができる。その隙間によって息ができ、生きのびることができるということ。

 

藤本和子『ブルースだってただの唄―黒人女性のマニフェスト』(朝日選書) 

藤本和子『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』(岩波現代文庫