炭、粟、盥、蟻のごとくに運びきてわが體力をひそかに養ふ
原始をとめ火を焚くことを知りし日のその恍惚か背を走るもの
雨後の草あはあはとあり生くることけだるくなりしまなぶたに沁み
夜の葡萄唇にふれつつ思ふことおほかたは世に秘すべくあるらし
(唇・くち)
寡婦たちを支ふるさびしき歌のありつよく脆くきりきりとすさぶときよし
血族たち集るけはひなき一室に明日の送葬のこと思はねばならぬ
(血族・うから)(集・よ)(送葬・はふり)
街とほく砂塵を捲ける窓のなかこもれる美しき觀念の世界よ
原罪をうべなふつつしみ缺けしをみな一人を呑みて御堂の闇深し
微溫圏に黴のごとくに生きてあるわが體熱ほめきにおびゆ
(溫・かび)
静かなる冬日の海の昏れむとしこの須臾のかなしみはいづこよりきたる
わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる
ひとときにものみな消えむ淡きひぐれ敷物をあゆむしろきけものよ
青銅の小さき時計が時刻む怖れよ胡桃は濃き闇に垂れ
なにか未来を懐かしがっているような、自分が未来に立っていて、その場所から見た過去である現在を歌にしているような、不思議に時間が操作されているような感覚があった。浮いてしまいそうななにかを押さえ込み現在に定着させて見つめる、そういうやり方が必要だった。
操作された時間を読むことで、ばらばらの、それぞれのものごとをそれがあるべき位置に置いていく見えない手をみているような感覚があった。この独特な時空間の流れと、読者である自分にとっての現在が、だからリアルにかち合うときがある。そのリアルさは実感や体感ではなくて、どうにも気持ちの悪い、納得のいかない、宙に浮いたまま腹落ちのしないリアルさだと思う。歌の感覚、詩の感覚のリアルさ。意味や軸のないリアルさ。
手を、身体をよく使って働いていたんだなあと思う。この頃は、誰も。読むときによって気になる歌は変わるけれど、今はそういう歌に惹かれた。
「盥」はほかの歌集にも登場して、連作の主役になっていた。金子光晴の「洗面器」を思い出す。
葛原妙子『橙黄』(『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房))