日記

とみいえひろこ/日記

2021.02.11

進むには、目に見えないなにかの動きについて、それも自分のものではないもの、それを見て説明をして伝え、共有して助けてもらわないといけない、いろいろな方向からいろいろな手を使って。ここを抜けるために知らないところへ行かなければいけない。

説明しはじめる前に、すでに、選択と廃棄がわたしのそのときの都合によって無自覚になされている。そのわたしはどこから来るのかとも思う。

何度も違う場所でそのときに自分がすべきと思う説明、したいと思う訴えを繰り返す、だんだん自分のなかでその説明や情のようなものが強固になって、それは事実でもなんでもないのに、わたしの思い込みであるのに、そういうことがあって目に見えるのだということに決まっていってしまう。それでとりあえず進むのがいいと思ってやっている、同時にそのことが不安で不安でたまらないと思う。決めないためにできるかぎり多く雑多なものを自分のほうが抱えていなければと思う。

 

すこし、その動きに自分を似せてゆくといい、しゃがみこんで何も見ないでその山と谷の流れに自分のなかの動きを合わせてゆく。と、その持ち物や出来事を外にいるわたしは持つことも見ることも出来ないけれど、自分がいる場所や声の届かなさ、黙るべきときがすこしわかると思う。自分のいる位置は独特で、あってもなくてもいい、代わりもない。無駄なことを自分はしなくていい。

それと、選択肢はまだまだあって、それらの選択肢をわたしは思いついてもいなかったことに気づいた。それらの選択肢を見て選んでこなかったということは、わたしはやっぱりここで今はこれをこう見たいということなんだと理解しなおす。

流れに似せてゆくといい、似てゆく自分や共鳴する自分を感じとるといい、と思ったのは、自分の外側の環境がやっぱりそうなってきたから、目に入ってくるようになってきたからで、今のわたしにとって都合がよかった。ものごとの流れがあることが感じられて、呼吸ができる感じ、その尾をつかんだ。

 

過去の制作物の文字組をみると、そのときの自分の状態がいやというほどわかると思う。こうやりたかったということ、ここで調整しようと思ったこと、あとを引いて思っていること、そのときの自分がこう理解してこう方向づけようと思い、その力が外に表されるときにどれほどの力に変換されたか、間違ったか、足りなかったかということ。

時間が止まって、すこし選べるようになってきたと思う。時間をつくる制作物に関わることが増えてきた。そのときの動き方はとても独特で、自分で見つけなくてはいけない。同時に、どんどん時間が限られていく。